『日日雑記』武田百合子(中公文庫)
「百合子さんマジックの秘密」
ちょっとご縁があって武田百合子のエッセイをいろいろ読み返しているのだが、この人の書くものは何度めかに読んでも読んだだけではすまなくて、人にいいつけたくなるようなところがある。この一週間ほどのうちにも、幾度も鞄から文庫本の『日日雑記』や『ことばの食卓』を取り出して、「いや、突然、話は変わるんだけど、武田百合子って知ってます?」などと、鉛筆でぐりぐり印をつけたページをめくったりしてきたが、こちらが先走っているせいか、聞いている方はたいていきょとんとしている。とくに若い人。
「武田百合子を読んだけど、ぴんとこなかった」なんていう人がいるのは筆者としては信じられないのだが、その一方で、「どの辺がいいんです?」と質問されるとうまくこたえられない。おかしい、とか、変、とかいう説明では足りない。関節がガクッとなるような、100キロくらいのひょろひょろストレートにすかっと空振りするようなところもあり、かと思うと、急に背中にまわりこまれるようなところもある。ふつうの文章の〝ツボ〟のようなものを外してあり、それがまさに〝ツボ〟になっている。狙いなどないのだが、そのくせ、遠い目的地が見えたような気にもなる。というわけで「ご縁」(「ユリイカ」の武田百合子特集)の方では、「武田百合子はどうしてすぐ気持ち悪くなるのか、オェッとするのか」的なことを書こうと思うのだが、そこに入りきれなかった点をこちらでは取り上げたい。
武田百合子の魅力はいろいろあり、その中でもナンバーワンはおそらく「本人その人」だろう。娘の花によると、
学校の玄関にサンダルが一足だけポーンって脱ぎ捨ててあるの、あっちとこっちに。それ見て、「あっ、おかあちゃんが来てる」ってわかる。(文藝別冊「武田百合子特集」の「インタビュー」より)
……ということだったらしい。でも、これは今となっては、私たちにはどうしようもないことだ。書いたものからご本人を想像するしかない。百合子さんはいったいどんな「ご本人」だったのだろう。おそらく文章の通りの人だったのではないかと推測する。文章の通りとはどういうことかというと、今回とくに「発見」したのは、けっこう人の物真似を得意にしていたのでは?ということだ。ねえねえ、××さんがこんなこと言ってた、なんてやったのではないか。そしてその「こんなこと」を百合子さんが実演してみせるのである。たとえばいろんな怪人物の出てくる『日日雑記』の中でも、とくにいい味を出しているのは映画雑誌をひとりでやっているという「O氏」なる人。その人から電話がかかってきて、百合子さんはガード下のあんまりきれいじゃない酒場にお伴することになる。O氏は大病したあとなのだが、妙な元気がある。
しばらく人と会う機会がなく、ネコとだけ口をきいていたというO氏は、頭の中に押し合いへし合い浮遊してくるものに勝手気ままにとびのり、勝手にとび移り、あれもこれもと、せっかちにしゃべりはじめた。
「××のやつ。あいつ色魔だったんだ。いままで気づかなかったなあ」ここのところ一人でずっと××という人の性生活ぶりに感服しきっていたらしく、いきなり、う、うん、う、うん、と××さんがのりうつったごとく仕方咄をした。私は××という人をまったく知らないのだが、知っていようといまいと平気だ。
「昨日はさ。四本立てピンク(映画)のうち、二本観て出てきた。そう、新橋のガード下の。これがとても面白かった。どうしてそんなに面白かったか、家へ帰ってずっと考えてみた。結局よく考えてみたら、俺って何にも女のこと知らなかったんだよね。俺って少年みたいなんだよね」
「いまごろ気がついたの」
「そお」おそろしく真面目な顔をして深々と肯く。もう手遅れではないだろうか、それに自分で自分のこと少年みたいだなんて、よく言えるなあ、私はそのように思ったが黙っていた。(九八~九九)
O氏、なかなかいい。でも、O氏そのものがいいというより、やっぱり百合子さんと会ってあれこれやってるO氏がいいのだ。いや、もっと言うと、百合子さんにこうして物真似されてるO氏がいいのだ。
それでその物真似なのだが、O氏が登場する少し前には、映画館で変なおじさんが登場する。こちらはこんな具合である。
通路をへだてて右隣りの男は、足袋みたいに厚ぼったい左右別々の色をした靴下の足を前の椅子の背にあげて腰かけ、足元の床においた袋からパン状のものをとり出してものすごい速度で食べ、食べ終わると茶色の瓶の液汁をストローでチュッチュッと吸う。そうして「痴漢と置引に御注意ください」の場内放送に、液汁吸いを中断して「バカヤロ。痴漢だって……? するわけねえじゃねえかよ。婆あばっかりじゃねえか」と、大きな声で言い返した。皆が笑ったので得意になったのか、液汁のせいでメキメキと元気が出たのか、その男はニュースと何本かの予告篇がはじまっても、自分の意見や感想を発表し続けた。
「バカヤロ、こないだもみたぞ、なまけるな、またやってんじゃないかよお」と奥多摩の鮎解禁のニュースを叱る。悲しい音楽が流れて予告篇の主役女優が現れると、「あ、佐久間良子、練馬の御嬢さんだ、練馬じゃない目白だったかな、目白の御嬢さんは習字がうまいんだ」主役ばかりでなく脇役が現れても一々名前をよびあげ、「大正十三年生れ、淡島千景と一緒」「熊本出身よ」と出身地趣味年齢も叫ぶ。くわしい。映画業界にいたことがあるらしい。「×××××。あ、いいんだあ、この女」「なんだ、これは」などと、機嫌がいいのだか悪いのだか、判断がつかないから、まわりの客は目を合わさないようにしている。そのうちに急に眠たくなったのか、静かになった。(九一~九二)
「練馬じゃない目白だったかな」のあたりをはじめとして、こちらもかなりいいのだが、こうしてならべて引用してみると、あれ? このふたり似てるなあ、などと思わないでもない。いちおうそれぞれ直接話法だし、声色はそれぞれに似せてある感じなのだが、けっこう同じなのではないか。ちなみに全篇にわたって頻繁に登場する娘の花(Hと呼ばれる)はこんなふうだ。
「わたしの友達で、女の髪の毛を見ると、ムラムラとその気になるという人がある。女の髪の毛の長いのが一本落ちてると、そうなる。女の家を訪ねて、部屋に落ちていたりすると、そうなる。頭にくっついてる髪の毛はそうならない。また、短い髪の毛が落ちていてもそうならないんだって」とHが言った。何となく分るような気もする。男は大へんなのだ。(六一)
これはHの物真似であり、その中にさらにHの「友達」の口調も微妙にまじっているのかもしれないが、たしかにO氏や変なおじさんとはしゃべり方が違うようだが、そんなに違わないようでもある。何だ、ぜんぶ同じじゃないか、と気づく。そして、それが何だか痛快なのである。当たり前なのだが、ぜんぶ百合子さんがしゃべっているわけだ。ねえねえ、こんなこと言ってた、といろんな人の物真似をしてみせる百合子さんの声色は実はあんまり変わらないのだが、百合子さんが物真似をしていること自体にこちらは嬉しくなってしまう。
きっと武田百合子という人は声を通過させる達人なのだ。『日日雑記』はタイトルの通り、日々のことを書き留めた「雑記」からなるが、その中でももっとも愉快なものにこんな記述がある。まさに声の「通過」をめぐるエピソードである。
ある日。
夕方まで、だらだらと雨が降った。少し裁縫をし、少し本を読み、電話がかかってきて、ちょっと喧嘩した。夜になると、ざんざん雨が降った。レコードを出してきてかけた。
X氏が電話をかけてきて、私のやり方(暮し方)について、あれこれと説教したのだ。あまり強引な言い様だったから、むっとして「自分のことは自分で決める!!」と、言ったのだ。自分の吐いた言葉が、めったに使ったことのない言葉だったので、電話をきってからも、しばらく興奮していた。興奮が去ると、使いつけない言葉なのに、どこかで聞いたことのある言葉だと思った。よく考えてみたら、一週間ほど前、日本の総理大臣がアメリカに行き、向うのえらい人たちにとり囲まれて、日米貿易摩擦の牛肉、オレンジ、自動車を問いつめられたとき、ついに口から滑り出てしまった一言なのだった。また、総理大臣は帰国すると官房長官(?)から忠告をうけたが、そのさいにも「自分のことは自分できめる!!」と口癖になってしまったかのように返事した一言なのだった。私は新聞で読んだのだ。(二九~三〇)
この話、おそらくご本人にとってもそうなのだろうが、あまりに予想外の展開で、読者としては完全にやられっぱなしの気分である。それにしても、実はぜんぶ同じ声色で物真似しておいて――つまりぜんぜん物真似になってないのだが――それでもO氏や変なおじさんやHや、それから以前この欄でもとりあげた『富士日記』の武田泰淳や外川さんや、どの人も人物として生き生きと立ち上がってくるのはいったいどうしたことかと思う。みんな武田百合子と面会しているだけで丸裸にされてしまうのだろうか。やっぱり百合子マジックとしかいいようがない。