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『国家の品格』藤原正彦(新潮社)

国家の品格

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「新書の「品格」について」


藤原正彦国家の品格』(新潮新書)は、昨秋の刊行以来、各書店で売上ベスト1を記録しつづけている大ベストセラーである。「大好評100万部突破」と版元はイケイケだ。ぼくのまわりでも、何人ものひとたちが同書の読者となっている。何冊もまとめて買って、ぜひ読むようにと周囲に配るひとまで現れた。タダゴトではない。

同書における藤原の主張は単純明快である。まず日本の「本来」の姿を「情緒と形の文明」と規定する。同時に、今日の日本は本分を見失い、ゆえに「品格」が失われているとの認識を示す。その原因は、国際化という名のアメリカ化にある。藤原のいうアメリカ化とは、「論理」と「合理性」すなわち近代合理主義の別名である。そして、バブル崩壊後の日本社会を跋扈している「改革」は「論理」と「合理性」にもとづくがゆえに、日本社会の荒廃を食い止めることはできない。いま「日本人」に必要なのは、論理よりも情緒、英語教育よりも国語教育、民主主義よりも武士道精神である。これらを再獲得することでしか、「日本人」は失われた「品格」を取り戻すことができないであろう。──以上、試しに300字足らずで要約してみたが、もっと短くすることだってできる。

こうした主張の中身そのものについては、大いに感動するひともいるだろうし、またかとうんざりする向きもあるだろう。個人的な信念レベルの話が日本人ないしは日本社会全体のあり方へと横滑りしているわけだが、それは著者個人の問題というより、「日本人論」という一大ジャンルの磁場の強さに起因するというべきかもしれない。長い「歴史」と「伝統」をもつこのジャンルについては、最近岩波現代文庫版のでた南博『日本人論──明治から今日まで』に詳しい。興味のある方には一読をおすすめしたい。

さて、ここで同書をとりあげようとしているのは、その主張の内容について議論したいからではない。ぼくが同書に注目した最初のポイントは、これが「メディアはメッセージである」というマクルーハンの有名な格言にかんする典型的な事例だからである。同書はそのメッセージとメディアの二つのレベルにおいて、見事なまでに相反して引き裂かれているのだ。

まずメッセージすなわち内容について見てみよう。いかにして「品格」を取り戻すべきか、藤原が説く処方箋のなかに、「外国語よりも読書を」という主張がある。ここに注目しよう。英語ばかりうまくても内容がなければどうにもならない。内容を身につけるために「初等教育では(中略)一生懸命本を読ませ、日本の伝統や歴史を教え込む」「活字文化を復活させ、読書文化を復活させる」ことが肝要だ。とくに若者は「古典的名作」を感動の涙とともに読むべきである。情緒や形や教養を養うものは読書なのだから。──国語教師や出版業界が泣いて喜びそうなフレーズである。

たしかに、藤原のいうように、初等教育にやみくもに英語を導入することは、英語をペラペラ話すことができるというような意味での俗っぽい「国際人」養成という目論見とは裏腹に、実効性皆無でほぼ無意味だろう。「古典的名作」も、読まないよりは読んだほうがいいだろう。若者こそ読書せよという主張も、書物を読むという行為が基本的に習慣であることを考えれば、若いときのほうがより身に付きやすいということもいえるかもしれない。こうした主張は同書に限られたものではない。近年の教育にかかわる議論場において、保守的だが良心的なセクターからしばしばなされる発言である。読書は教養の源泉であり、読書なくして人格形成なし、というわけだ。

ところが、いったん目をメディアすなわち形式の水準に転じたならば、ぼくたちはなんともいえないアンビバレントな居心地の悪さを感じずにはいられなくなる。不動の信念に裏打ちされ力強く語られるテクストが、それを支える基盤であるはずのこの書物の形式によって、語られる端からやすやすと、かつ、にべもなく覆されているからである。喩えていえば、壮麗な巨大建造物の基礎を支える砂質地盤が、液状化現象によってさらさらと流されていくような感じだろうか。

新書とは、「人文書空間」とぼくが呼ぶ文化・社会的な配置を担ってきた代表的なメディアのひとつである。人文書空間では、「教養」「大学」といった諸概念が知識の生産流通管理を独占する装置として社会のなかで画然とした位置を占めるのと同時に、いわゆる「一般大衆」とのあいだに中間的な言説空間がつくりだされていた。新書という出版形態は、この中間的領域にかかわっている。1938年に創刊された岩波新書赤版において、岩波茂雄の筆による「創刊の辞」はすでに、新書の使命として「現代人のための現代的教養」を掲げている。具体的にいえば、新書、学術あるいはジャーナリズムにおける専門的事柄について、非専門家の読者に向かって、当該トピックスをわかりやすく解説し、これを安価でハンディな形で提供することにあった。専門書のように専門用語に頼ることをせずに、一般につかわれる言葉でその分野や研究を概括することは、しばしば誤解されるように手軽に書き飛ばすというような気軽なものではない。むしろそれには、用語や概念や論理のひとつひとつをていねいかつ仔細に吟味しなおしていくことが不可避に必要とされる。だから、ちいさな新書本を一冊上梓するまでに数年がかりという例もけっしてめずらしくなかった。

一方、『国家の品格』において顕在しているのは、専門家と非専門家のぶつかりあいという真剣勝負の対極であり、植木等青島幸男ふうにいうならば、「楽して儲けるスタイル」の追求である。すなわち、数時間の一般向け講演を、テープ起こしして手を入れて一丁上がりという編集手法である。下手に一から書き下ろしてもらうよりも手早く原稿を用意することができ、しかも多くのばあいずっと読みやすい。個々の事柄を論証する面倒な手続きもスキップできる。なにしろ、基は講演なのだからね。テーマにしても、著名であるがゆえに発言機会を得た専門外の、より大きく広範で一般的なテーマである(このばあいは教育論的日本人論)。以上のような性格は本文組みのゆるさにも現れている。39字×14行だ。参考までにたまたま手許にあった他例をあげておけば、同じ新潮新書の『新書百冊』が39字×15行、文春新書の『グーグル Google』が40字×15行、『岩波新書の50年』は41字×16行である。一冊の本にかける労力と売れ行きを秤にかければ、たいへんにコストパフォーマンスの高いやり方だといわねばなるまい。

こうした手法自体は出版業界ではめずらしいものではないし(ぼくだって活用したことがある)、編集にかける時間は長ければいいというものでもない。新書を「安価でハンディ」な器と見なして、そこに徹底して売れ線の内容を盛り込んでいくという手法もまた、カッパブックスのような先例に見られるように、近年に特徴的な現象というわけではない。『国家の品格』の本づくりが「楽して儲けるスタイル」だからといって、それ自体が否定されるべきものではない。

にもかかわらず、同書が示すテクストとメディアの二つのレベルにおけるアンビバレントな分裂がたんなる偶然ではないとするならば、それが人文書空間の没落後の様相を示す典型例であることと関係しているだろう。同書においては、テクストの水準において語られる「読書をとおした人格形成の重要性」という言説それ自体が、メディアの水準において、いかなる言説もただ消費の対象としか了解する用意のない、呵責なき「楽して儲けるスタイル」に接合されている。すなわち、同書がぼくたちに教えてくれているのは、もはや「教養」も「教養について語ること」も消費財でしかないということに相違ない。むろん「読書」や「読書について語ること」も同様だ。日本人が「品格」を取り戻すためには読書による教養の涵養が不可欠だと力説するこの新書本が形式の水準で示しているのは、皮肉なことに、かつて新書というメディアになんらかの意味で「品格」とよべるものがあったとしたら、今日ではそれが決定的に失われてしまっているという現実なのである。

念のために記しておく。以上のような見方を、同書の出版にかかわった個人レベルに素朴に還元してしまっては、問題の本質を見誤ることになる。これはどこまでも社会の水準の問題なのだ。個人についてぼくの考えをあえて述べるならば、それはつぎのようなものだ。ここまで縷々述べてきた新書という出版形態をめぐるこうした構造変容のすべてをすっかり呑みこんだうえで、藤原の主張に新書という形式を与えることを決意した。ゆえに、それが自覚的であれ無意識的であれ、同書の編集という行為はまさに、現代における出版空間の構造変容にたいする根底からの批判にほかならない。それはどのような批評の言葉よりも痛烈である。その意味で、名編集者であるといわねばならないだろう。


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