『心理学で文学を読む 困難を乗り越える力を育む』山岸明子(新曜社)
「心理学と文学の協同」
本書(山岸明子著『心理学で文学を読む―困難を乗り越える力を育む』新曜社、2015年)のまえがきは、心理学と文学の協同を示唆する興味深い文章から始まっている。
「優れた文学作品は人間性や人間の心理についての深い洞察に満ちており、そのことが読者を惹きつけ、読みつがれる大きな要因になっていると考えられる。小説はフィクションであるし、作家は心理学者ではないが、心理学とは異なった形での人間性理解のエキスパートによって書かれていると思われる。エキスパートによる小説の記述や展開は、心理学理論に即しているのだろうか。異なっていることもあるだろうし、あるいは心理学理論に先んじている場合もあるかもしれない。」(同書、iページ)
この文章を読み始めたとき、私はケインズの愛弟子で経済成長理論の開拓者であったイギリスの経済学者ロイ・ハロッドの言葉を思い浮かべていた。彼は、晩年の著書『社会科学とは何か』清水幾太郎訳(岩波新書、1975年)のなかで、社会関係の分析の基礎が人間の感情の性質を理解することであり、そして人間性の深い知識を学ぶ題材が優れた文学作品にあることを強調していた。晩年のハロッドは、ケインズと同様に、経済学を「モラル・サイエンス」のひとつとして捉えていたので、社会科学の基礎が人間性の理解を離れてはあり得ないと考えたとしても不思議はないが、経済学が自然科学のように高度に数理化した現在では、「異端」の説となってしまった。だが、もともと、経済学は、アダム・スミスの時代、「道徳哲学」(モラル・フィロソフィー)からわかれてきた歴史があり、ハロッドもイギリスの「伝統」を改めて強調し直しただけかもしれない。経済学が文学とつながるのなら、人間の心理に迫ろうとする心理学が文学と深い縁があっても何の不思議もないだろう。
さて、著者の専門は発達心理学だが、あとがきによれば、「作家の直観と洞察」が発達心理学の知見と一致することに気づき、本書の構想をあたためてきたという。取り上げられている文学作品の大半は、村上春樹、小川洋子、大江健三郎、遠藤周作、夏目漱石、森鴎外、モンゴメリなど著名なものばかりであり、その点では、心理学では古くから重要なテーマ(「不適応に陥った者の治療・回復」)を考察するにはよき題材になると思われるが、そればかりでなく、最近の「レジリエンス」(精神的回復力)の研究から得られる知見との比較検討も豊富に紹介されている。
小説を読んでいるときはあまり気に留めなかったが、小川洋子の『博士の愛した数式』における「博士」と「ルート」との交流は、E.H.エリクソンの言葉では、二つの世代間で「相互性」(厳密な定義は心理学者にゆだねる)が成立したケースと見なせるという(同書、51ページ)。また、村上春樹の『海辺のカフカ』に登場する、健全な発達を阻害されてきたカフカ少年が、危機的状況に曝されながらも、「情緒的および実際的に支えてくれる人」の温かい支援や、「母親の過去」の事情を理解するまでの人間的成長、そして「自我の強さ」をもっていたことが危機を乗り越えていく大きな要因になったことが描かれていた(同書、21ページ)。これは発達心理学の知見とほぼ一致する。
具体例を挙げていくと切りがないが、日本人として気になるのは、各国の国語教科書で取り上げられる文学作品を比較検討すると、例えば、「アメリカでは、創意工夫しチャレンジしながら生きていこうとする主人公」がしばしば登場するのに対して、日本人が好むのは「深刻で内向き、求道的・自己犠牲的で優しい『ごんぎつね』」だという研究を紹介しているところである(同書、123ページ)。教材の選択に国民性があらわれるのはよく理解できるが、昨今よく語られる「道徳の教科化」のように、もし上から日本文化の「伝統」なるものを押しつけられるようなことがあるとしたら、やや不安である。
日本の国語教科書の中に見られるのは四つの「罪悪感」(同書、105ページ参照)のうちの二つ(「他者を傷つけたことに焦点はある罪悪感」「相互作用をもつ他者と自分にもたらされる結果の不均衡に由来する罪悪感」、同書132ページ)だという指摘も見逃せない。著者は、「それは日本人に多く見られる罪悪感であるが、教科書の定番でその問題を描くことによって、大人たちは次世代にそのような罪悪感をもつことを期待していると考えられる」(同書、132ページ)と言っているが、国語教科書による「道徳教育」なるものがどのような方向に進むのか、さらに検討していく必要があるのではないだろうか。示唆に富む好著である。