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『アンコール・王たちの物語-碑文・発掘成果から読み解く』石澤良昭(NHKブックス)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 「今は遺跡どころではない。食糧供給が先だ」と言われた1980年代初期の疲弊したカンボジアで、著者、石澤良昭は「食糧は近隣の米産国からいくらでも手に入るが、アンコール・ワットが崩れ落ちたら二度と元の姿には戻せない」、「遺跡も人も大切だ」と主張しつづけた。「なぜこうまでもアンコールに執着」するのか、よく訊かれる質問に、著者は「なかなか明快にその理由を説明できないが、アンコール・ワットの大伽藍に魅せられて楽しんでいるのではないことだけは確かである」と答えている。その答えの一端は、著者の「カンボジア人による、カンボジアのための、カンボジアの遺跡保存修復」という国際協力の哲学からみえてくる。著者が半世紀にわたって守ろうとしてきたものは、一言で言えば「カンボジアの至宝」だろう。しかし、その「至宝」の意味をほんとうに理解できるのは、カンボジア人以外にいない。そのことがわかっているだけに、カンボジア人ではない著者には「明快にその理由を説明できない」もどかしさがあるのだろう。著者のカンボジア史研究は、カンボジア人のもっている手の届かない尊厳さに一歩でも近づくことではなかったのだろうか。

 そのカンボジア史研究は、容易ではなかった。本書を読んでも、その拠り所は依然として碑文、『真臘風土記』などの漢籍史料、ヨーロッパ人の旅行記などの文字史料を基本に、近年すすんできた考古学、美術・建築学などの研究成果を取りいれているにすぎない。そして、「今後地道な考古発掘が必要であり、遺跡地質学、熱帯農学、水文科学など、関連の科学を総動員する必要がある」と訴えている。近代歴史学は、国民国家を中心にすすめられてきたため、強い国家が成立しなかった民族の歴史はあまり発達しなかった。ましてや、カンボジアはフランスの植民地を経て、内戦状態にあった。わたしたちは、近代という時代の先入観を通して歴史を見、誤ったイメージを抱きがちである。カンボジアの歴史は未知の部分も多く、それだけに新しい発見が著者の研究の原動力になったのだろう。

 本書本編のアンコール王朝興亡史は、著者の長年の研究成果をまとめたもので、その研究のプロセスを感じることもでき、楽しむことができた。さらに興味をもったのは、付章Ⅲ「すべての道はアンコールへ-ヒトとモノが動いた大幹線道」で、カンボジア史研究だけでなく、東南アジア大陸部の歴史研究にとって魅力にあふれていた。カンボジアの主要民族であるクメール人は、かつて現在のカンボジアの領土におさまらない活動範囲をもち、その文化はさらに広範囲に影響を与えた。そのヒトとモノの動きから、現在独自の国家をもたないモン人とともに、かつて東南アジア大陸部の歴史と文化を創造していたことを想像させるスケールの大きな記述となっていた。現在の国家にとらわれない歴史研究がすすむと、あの偉大なアンコール・ワットなどの遺跡を残した民族の実像が浮かび上がってくるだろう。

 それにしても、巻末の「参考文献」をみると寂しくなる。半世紀にわたって「孤軍奮闘」してきた著者の研究成果がほとんどである。おそらく著者は、新しい発見を誇らしげに自信をもって記述するいっぽうで、不安も覚えていたことだろう。将来新たな研究者の出現による「発見」で、自分の仮説が崩れるかもしれない、と。しかし、著者は、自分の研究が踏み台となって、新たな研究が出てくることを期待してきただろう。アンコールの研究だけではない。東南アジアには、たんなる個別研究としてだけでなく、学問一般に通用する新たな研究の可能性が満ち溢れている。ヒンドゥ教や仏教といったインドの影響を受けながらもインドにはない巨大な遺跡を数々残したクメール人の強大な権力、文化大国を思わせるような独自の優れた美術・建築技術、文化的共生を感じさせるいっぽうで排他性も感じさせる遺物、優しさと残酷さ、謎をあげだしたらきりがない。その謎解きに、その土地の人間がかかわることは必須条件だ。だが、それには、まだ時間がかかるかもしれない。その日まで、著者のように地道にそのたたき台をつくる作業をするのも、大きな国際貢献だろう。

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