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『明治前期の教育・教化・仏教』谷川穣(思文閣出版)

明治前期の教育・教化・仏教

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 本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。



 近代教育と宗教の問題は、どこの国でも近代化論のなかで議論されてきたものと思っていた。ところが、本書を読むと、日本では本格的に取り組まれてこなかったことがわかる。著者、谷川穣は、そのこと自体がさまざまなことを示唆していると考え、「教育史、宗教史、仏教史、あるいは日本近代史といったジャンルのいずれにも分類されうる」が、「どの領域でも実は本格的に取り組まれてこなかったテーマ」を、この一連の論考によって「それらの領域に架橋」し、なにか本質的なものを見出そうとしている。



 本書は2部6章からなり、第一部「教導職と教育-明治初年-」と第二部「仏教と教育-明治一〇~二〇年代-」はそれぞれ3章からなる。各章で論じられている内容は、それほどやさしいわけではない。それをわかりやすくしているのは、著者の真摯な人柄としかいいようがない。「序章」と「終章」で、なにを論じようとし、なにが明らかになったかを、おそらく著者自身にも言い聞かせながら、ひとつひとつ確認して書いている。各章でも、「はじめに」「おわりに」で同様の確認作業がおこなわれている。


 とくに「序章」では、つぎの8つの問題群をあげた後、「本書の構成」を述べ、読者を自分の土俵に引き入れている。

  (1)「国民」形成と学校教育制度

  (2)宗教・ナショナリズム・学校教育

  (3)「教」の時代の捉え方

  (4)寺子屋と仏教の関係史-近世史研究の問題-

  (5)学校教育と宗教の関係史-近代史研究の問題-

  (6)明治前期「教育と宗教」関係史像とその問題点

  (7)教育史研究における民衆教化政策と仏教

  (8)「宗教」の語と学校教育の社会的定着


 本書の「ささやかな」結論は、「終章」で「一言でいうなら、《近代日本の学校「教育」は宗教者の民衆「教化」と「仏教」とを〈踏み台〉にすることで定着した》、となるだろう」と述べ、「近代日本形成期の人々が送った「教」の時代は、前近代の混沌した状況をすっぱり断ち切ったわけではなく、また教育・教化・宗教〈ないし仏教〉を単にそれぞれ固有の領域に切り分けたわけでもなかった。そして「教育と宗教の衝突」論争は、おそらくそのような時代の「終焉」を象徴的に示す、一つの事件であった。その論争内容の空虚さは、個々の分離されざる諸相を、歴史の表舞台から消し去っていったように思えてならない」と結んでいる。


 著者は、問題群(2)「宗教・ナショナリズム・学校教育」で、ナショナル・ヒストリーを超える視座を提起し、「フランスのムスリム」の例をあげて「政教分離の理念と実践の程度は当然のことながら各国の歴史的・社会的な背景によって、多様で複雑な様相を呈する」と述べている。では、近代日本の学校教育の草創期に「歴史の表舞台から消し去っていった」ことが、現在の日本にどのように影響しているのか。グローバル化のなかで、「宗教音痴」の日本人について、ひと言述べてくれると、明治初期の歴史がもっと身近な問題として浮かび上がってきたことだろう。


 日本近現代史では、明治維新や1945年の敗戦を大きな断絶ととらえ、その断絶の前後の連続性を無視することがままみられる。「近世」と「近代」、「戦前」と「戦後」は、時代区分としては便利であるが、そこに大きな落とし穴がある。「近世」は英語で言えば「初期近代early modern」で、「近世」と「近代」の差はあまり感じられない。それが、日本語で「近世」と「近代」というと大きな断絶を感じる。明治維新を過大評価しようとする政治的意図が働いているように感じる。いっぽう、「戦前」と「戦後」の断絶も、「戦前」を不問にしようとする政治的意図が感じられる。それらの政治的意図を排除し、日本史を相対化することによって、学問としての日本史の存在意義が高くなる。そのためには、著者のような若手研究者が、「満を持して」出版するようなことをせず、どんどん出版して世に問えばいい。

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