書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『戦争で死ぬ、ということ』島本慈子(岩波新書)

戦争で死ぬ、ということ

→紀伊國屋書店で購入

 帯に「戦後生まれの感性で、いま語り直す戦争のエキス」とある。いわゆる「戦記もの」の著者で、本書の著者島本慈子が生まれた1951年以降の者は、ひじょうに少ない。この世代の役割は、日常的に接してきた戦争体験世代の「戦争のエキス」を、つぎの世代につなぐことだろう。著者は、それを「何のために?」と問いかけ、「日本のこれからを考えるときの判断材料として、過去の事実のなかに、未来を開く鍵があると思うから」と答え、「誰のために?」にたいしては、「私と同じく、戦争を知らない人々のために」と答えている。


 本書は8章からなる。最初の7章は1945年を中心に「負け戦」のばかばかしさを語り、最後の「第八章 九月のいのち-同時多発テロ、悲しみから明日へ」で、今日の戦争へと読者を引きずりこんでいる。そして、「あとがき」で「本書は、憲法九条改定問題を考えるときの「基礎知識編」として読んでいただきたい、と願っている」。戦争体験世代は主観的に戦争を論じるのにたいして、著者の世代はその主観性を尊重しながらも相対化し、つぎの世代の戦争論へとつなげようとしている。しかも、自分の身近なところから話をすすめ、いま起こっている戦争へと展開している。


 本書は、著者が通った高校の先輩である手塚治虫の戦争描写にはじまり、2001年の「九・一一」で犠牲になった後輩の祈念植樹について語り、1945年大阪空襲のために校庭で犠牲になった先輩へと思い馳せて終わっている。わたしも、著者が卒業してから弾痕が残る校舎で学んだ。そして、手塚治虫の作品に登場する戦争描写を気にし、「生きる」ということのメッセージを感じとっていた。


 いま日本人の多くが、戦争に反対するだろう。しかし、それはきれいごとの反戦論で、わたしたちが無意識のうちに現在起こっている戦争に加担していることに気づいている人は、それほど多くない。わたしたちが払った税金、預貯金、投資、消費活動でさえ、どこかで戦争と結びつき、人を殺すことに使われているかもしれない。本書では、アジア・太平洋戦争中に、無意識のうちに戦争に加担し、人を殺すことに無頓着になっている「普通の人びと」も描かれている。「第五章 殺人テクノロジー」「第六章 おんなと愛国」「第七章 戦争と労働」では、和紙とこんにゃく糊で製造した風船爆弾、死ぬことを強いる「チアガール」、毒ガス製造などが、具体的に語られている。毒ガスを製造していた人は、つぎのように語っている。「毒ガス工場にいた当時は、ガスは人道的兵器だと叩き込まれていたわけだから、これで人を殺すという意識はなかったですよね?」。人間を殺すことに加担しながら、その意識が麻痺する戦争の恐ろしさを、本書は伝えている。


 わたしたちがいま、深く考えもせずに戦争に反対するのは、実際に戦争被害者になることを想定してであって、気づかぬうちに加害者や加担者になっていることに無頓着に「平和」を唱えているだけかもしれない。自分の身に、家族に、愛する人に、「戦争で死ぬ、ということ」が現実に迫る前に、わたしたちになにができるか。今年も「8月のジャーナリズム」で、戦争のことが取りあげられる機会が多くなったが、北京オリンピックのためにかき消されたような気がする。たんに「平和」を唱えるだけの「平和論者」を越えるためには、被害者にならないための戦争反対ではなく、加害者・加担者にならないための戦争反対を考えなければならない。

→紀伊國屋書店で購入