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『戦争の記憶-日本人とドイツ人』イアン・ブルマ(ちくま学芸文庫)

戦争の記憶-日本人とドイツ人

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 昨年の夏、本書とともにフランクフルト行きの飛行機に乗るつもりだった。都合でドイツ行きはかなわなかったが、本書を携えてドイツを旅行すれば、ドイツがより理解できるだけでなく、自国である日本のことを再考するいい機会になると思った。


 本書では、第二次世界大戦にかんするドイツと日本が、つぎのような見出しで巧みに比較されている。「アウシュヴィッツ」と「ヒロシマ」、「シュトゥットガルト裁判」と「東京裁判」、「ドイツの教科書」と「日本の教科書」、「ドイツの記念館めぐり」と「日本の展示館を歩く」、「ドイツ連邦議長の失敗」と「長崎市長への銃弾」、「パッサウ-レジスタンスの真相」と「花岡-強制連行の現場」。しかし、著者のブルマは、「真珠湾ホロコーストと比べるのは、もちろん無意味だし、日本帝国海軍の元軍人たちはナチスとはほど遠い」という。たんなる比較を目的としているわけではない。


 著者は、「日本語版へのあとがき」で、つぎのように述べている。「日本についてものを書く人は、日本人、外国人を問わず、いかに日本が他の国と「違う」かを強調します。また、「日本のユニークさ」は日本人の手による〝日本人論〟の変わらぬテーマであり、またこれは西欧ジャーナリズムが大好きなテーマでもあります」。「私が『戦争と記憶』を書いたひとつの理由は、日本が数ある国のなかで例外的な国であるという見方に批判を加えたかったからです。日本とドイツを比較した理由は、双方が互いにいかに違うかだけではなく、いかに類似した部分があるかの検討をしてみたかったからでもあります」。


 1951年、オランダのハーグに生まれた著者は、「加害者でも被害者でもなく、罪の意識なく過去を見すえようとしている」人びとと、「過去の暗部を討論し議論」することを願って、本書を執筆した。その先にあるのは、「戦争を引き起こす」要因を取り除くことだ。


 著者は、近年の日本の傾向を強く意識して、「文庫版への序文」でつぎのように述べている。「今あるウソをより多くの新たなウソで置きかえたところで、何のためにもなりません。半面の真理と戯言に拠る愛国的プライドなど「自己妄想」以外の何物でもないでしょう。本当に必要なのは真実への探求です。その目的は人々の気分をよくさせることではなく、むしろ、自分自身と今自分たちが住んでいる社会をより深く理解することにあります。批評と討論に基づいたそのような理解なくしては、人々は扇動家(デマゴーグ)と宣伝家(プロパガンディスト)の輩が語ることを鵜呑みにするようになってしまうでしょう。そしてそこには圧制者が権力を奪い、戦争を引き起こす図式があるのです」。


 扇動家や宣伝家に惑わされることのない議論する土壌(充分な知識と論理的に考えることのできる思考能力)が、いまの日本にあるのだろうか。それをつくるひとつの場が、大学の教養課程だろう。気分を新たに、10月から全学共通科目「戦争と人間」の授業をはじめよう。


 ところで、同じような経験をしたことのある者として、「訳者あとがき」のつぎの1節が気になった。「日本語に堪能な著者は、日本語でインタビューし、英語でメモし、英語で本書を仕上げた。それを翻訳して、どこまで発言者の真意が再現できるか。言語上の実験と呼ぶには、あまりにもそれぞれの人の思想、立場、人生に深く関わった発言であることを思うと、気が遠くなるような不安があった」。近代の比較は、同じ近代的思考で考えることができ、楽だった。しかし、多文化社会の共生を目指す現代では、それぞれの違いを理解したうえで、比較しなければならない。訳者が悩んだのは、「近代」と「現代」のあいだのどこで妥協して、日本語にするのかだったのだろう。訳者の不安は、いつまでたっても消えることはないだろう。その「不安」があるからこそ、わたしたちは議論する必要がある。


 本書の英語の原題は「罪の報い-ドイツと日本における戦争の記憶」で、訳者は聖書にある「罪の報いは死である」という1節は、日本人にはわからないとして、副題を日本語のタイトルにもってきた。もうひとつ、原題と日本語訳で違うのは、「ドイツと日本」と「日本人とドイツ人」である。原題の主題である「罪の報い」とともに、国家と個人の関係も戦争を考えることを通じて考えてみたい。「ドイツと日本」「日本人とドイツ人」を単純に比較する前に、それぞれの基層社会・文化を考える必要がある。そんなことを考えながら、新たにドイツ旅行の計画を立てたい。

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