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『アフリカ・レポート----壊れる国、生きる人々』松本仁一(岩波書店)

アフリカ・レポート -- 壊れる国、生きる人々

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「アフリカはいつもここにある、それなのに」

 この世界がアフリカを必要とし、アフリカのおかげでどんなに潑溂としたおもしろく楽しい場所になっているかは、ちょっと身のまわりを見わたしてみただけでわかると思う。われわれの日々の生活の中に、「アフリカ的なもの」(およびそれがアメリカスで他の要素とまじりあい姿を変えた「アフロ=クレオル的なもの」)は、すでに深く深く入りこんでいる。音楽に、踊りに、スポーツに、美術に、ファッションに、アフリカがある。ブラック・アフリカという起源は、そうしたいろんなジャンルの表現を担う人たちの顔や身体ともに表に現われ、見まちがうことなどありえない。

 ほら、彼、彼はアフリカ系にちがいないね。あ、彼女、彼女にもアフリカが入っていると思うよ。文化表現に遺伝子を根拠としてもちだす理由はまったくないが、表現は必ずその担い手のイメージとともに受容されるしかない。そこでは「アフリカ」というイメージは強く、しなやかで、カラフルで、躍動感と優美さにみちたものとして受けとめられ、しかるべき尊敬を受けてきた。20世紀以後の世界文化にアフリカがもたらしたものは計り知れないほど大きいとぼくは思うし、自分の日常生活の楽しみのいくつかを、すでに長いあいだアフリカに負ってきたと思う。

 たとえば。いま机の上にあるものを見てみようか。マリ共和国の首都バマコで開催されたアフリカ写真フェスティヴァルの、2007年度版のカタログ。おなじくマリ共和国の盲目の夫婦歌手アマドゥとマリアムの、ソウルフルなCD。途中まで見たDVDはブラジルのファヴェーラ(スラム)で育つ少年たちを描いた連続テレビドラマ『シティ・オヴ・メン』。さらにハイチの小説家ルネ・デペストルの短編集も、もう半年くらい、ページをひろげたまま置いてある。これらの書物や音楽や映像の担い手は、いずれも「黒人」。大西洋をまたいでアフリカ大陸とカリブ海やブラジルで展開する、アフリカ系文化のいくつかの表現が、こうしてぼくの想像力を支配し、脳を撹拌し、楽しませてくれる。それはそれでいい。

 問題は、こんなかたちでアフリカを享受している自分が、現代のアフリカについて、なんにも知らないことだ。人は誰しもその無知には限りがないし、悔い改めるのに遅すぎるということはない。それで手にとったのが本書。長らく朝日新聞に勤務してアフリカのさまざまな面を報道してきたベテラン・ジャーナリストによる、ずしんと胸をつく、アフリカの現在のレポートだ。読んでいて苦しくなる。じりじりとしめつけられるように、気持ちが重くなる。本書の射程については、著者の松本さんの冒頭の言葉をそのまま引用するのがいいだろう。

「アフリカの様子がおかしい。

半世紀ほど前に植民地支配から独立し、豊かな資源を手に、希望に満ちた前途に踏み出したはずだった。しかし今、多くの国で人々は貧困にあえぎ、国民同士の殺し合いまで起きている。なぜなのだろう。

その原因を突きとめたいと思ってアフリカに何度か足を運んだ。」

 その何度かの旅の結果は、すでに朝日新聞紙上で、いくつかの連載となって発表されていた。ぼくはそれらの連載を読んで興味を引かれていた。本書の土台になっているのはそんな連載記事で、それが大きく改稿されている。

 改めて通読し、改めて途方にくれる。何からどう手をつければいいのか、何をどう考えればいいのか。ここに語られているのは徹底的に失敗したあちこちの国家の姿であり、機能しない国家のもとで営むしかない社会の困窮ぶりだ。資源があり、ゆたかな農業があり、十分な人口をもち、チャンスもあった。1960年が「アフリカの年」と呼ばれ、その年アフリカの多くの国々がヨーロッパ植民地主義のくびきを逃れて独立を達成したことは、いまも多くの人が昨日のことのように覚えているだろう。独立は希望だった。

 それからほぼ半世紀、希望は潰えた。残忍きわまりない独裁、利権をめぐる対立、政権の腐敗、手を変え品を変え独立国につけいってくる欧米の「別のかたちでの植民地支配」、資源を狙いきわめてアグレッシヴに進出をはかる中国、崩壊した経済や内戦を逃れて国から出てゆく人々の大群。ジンバブエ南アフリカアンゴラスーダンといった国々に取材を重ねながら、著者は安全も安心も失った社会の現状を描写し、その原因を論じてゆく。

 信じがたいほどの暴力が、あっけにとられるしかない理不尽が、さまざまな場面で噴出している。個々の事例にはここではふれないが、全体として見ると、近代西欧の世界に対する最大の輸出品だった「国家」という機構自体が、具体的なそれぞれの土地での生活とまったく噛み合っていないということが、おぼろげにわかってくる。

 恣意的な国境線に基づき「国家」として成立させられ、その輪郭を保ったままやがて独立にいたっても、じつはそんな外来のシステムよりも優先されるのは古来の「部族」のつながり。一族郎党の利益のまえには、法も人権もないものと見なすような態度なのだ。

 「国民国家」というイデオロギー的な構築物は、それに過剰なほど適応している日本のような文脈で見ると、胡散臭さばかりが鼻につく。しかしもともと途方もない多部族・多言語・多文化地域であるアフリカなどでは、混乱する多様性を外面的にでも統一し、一国家という単位経済=社会として国際経済=社会に参加するためには、それはいちどは通らなくてはならない段階であるように思える。われわれはもともとネーション(民族)ではない、といえば、それはそうだろう。だがすでに枠として成立してしまったネーション(政治・社会的統一体としての国)を経営してゆく努力においては、各部族の平等と公平は、最低限の前提となる。たとえば「ジンバブエ」としての統一感と全国民に対する配慮を失った結果、かつて「もっともめぐまれた独立」をはたしたこの国はどうなったか。

 深刻に考えこまざるをえない事態をいくつも紹介したあとで、著者の声は希望を語りはじめる。読んでいるこっちも、少しだけほっとする。第5章「<人々の自立>をめざして」と第6章「政府ではなく、人々に目を向ける」は大きな救い。自分たちの生活を自分たちで変え、自立の道を探る人々にとっては、外部からの小さな助力がいかに有効に生きてくることか。お金は出してもその先をまるで考えない政府から政府への援助では、事態はいくらでも悪いほうに転ぶ可能性がある。ところがまったくの個人の努力で、民間ベースで起こされた事業が、人々の生活を劇的に好転させている例だって、実際にいくつもあるのだ。

 ケニアマカダミアナッツの商品化にとりくんだ佐藤芳之さん。ウガンダで衣料メーカーを経営する柏田雄一さん。人生をかけてアフリカに事業を起こしてきたかれらの、「日本的」と呼んでもいい勤労思想が、アフリカの人々にはたぶんかなりのカルチャーショックをともなって受入れられ、人を育て、産業を育てている。

 安全に、安心して働き、働いたことに見合って、それだけ生活が良くなること。いかにもあたりまえのことだが、それを完全に実現した社会など、地球のどこにもないのかもしれない。それはいわゆる先進国だって例外ではない。だがはじめから安全を奪われ、仕事といっても可能性すらなく、生活を改善するための糸口がほとんど見つからない状態が、アフリカには蔓延しているのだ。

 それに対して自分がどういう態度や行動をとるのかと聞かれると、ぼくには答えがない。それでも松本さんのようなアフリカ・ウォッチャーの声にたまには耳を傾け、アフリカの人々の暮らしをできるだけ現実に即して想像してみるのは、意味がないことではないだろう。時空の隔てを超えてゆく想像力だけが、どんなにささいなものであれ、現実の変化へのきっかけをもたらすのだから。そう思う。そう信じたい。


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