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『決壊』平野啓一郎(新潮社)

決壊

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「ITは世界を救うか?」

 教育の世界にも、確実にIT化の波は押し寄せている。私の勤務するInternational School of Parisでも、授業の出欠はパソコンだし、教材や授業計画等も学校が選択したシステムにパソコンで書き込む。私は使っていないが、スマートボードと呼ばれる電子黒板を使う教師が増えている。だが、このような世界のデジタル化は一体何を生み出すのだろうか。時にはこのような怪物を生むのではないかと思わせるのが、平野啓一郎の『決壊』に出てくる「悪魔」だ。

 平野は『日蝕』で衝撃的なデビューを果たした作家だが、『日蝕』、『一月物語』、『葬送』等、決して私の肌に合っているとは言えない作品であった。『決壊』を読み始めた時も、冒頭部の「ホームに降り立つと、待ち構えていたかのような熱気に出迎えられて、その飼い犬めいた、馴れ馴れしく執拗な纏わりつき方に家族三人ともが閉口させられた。」や「佳枝は、いつの間にか車中を領していた沈黙に気がついて、それに指先でそっと触れ、動かしても大丈夫かどうかを確認するかのように、小さく鼻を鳴らした。」という表現に出会い、戸惑いを感じた。何か落ち着かないのである。

 とは言え、読み進めると、ストーリーの面白さと共に、表現も落ち着いてきて、先を読ませる力がある。主人公は国会図書館勤務のエリート、沢野崇。両親、弟夫婦に甥が一人いる、どこにでもあるような家庭なのだが、弟がバラバラ遺体となって発見されるという事件が起こり、崇は事件直前に弟の良介と会っていたために、犯人であると疑われる。と書くと、何だか良くある事件物のような感じだが、そうではない。

 良介が殺されるまでに、かなりの紙面を割いて、良介と崇の内面が間接的に描かれている。二人とも具体的ではない何かの不安を抱え、自己の存在と現世界との間の「ズレ」を感じている。この二人の不協和音のような通奏低音が交わる時に、世界は「決壊」する。それが良介には残虐な殺人として表れ、崇は最終的な崩壊への一歩をふみ出すことになる。事件は二人の人生を促すための(とは言っても良介はこの時点で死んでいるが)触媒に過ぎない。

 犯人は「悪魔」、「離脱者」と呼ばれるが、社会のセキュリティ・システムのエラーを自ら演出している。「9・11のあと、航空機のセキュリティ・システムは一定の改善を見た。テロリストのお陰で、社会は一歩、より良い方向へと進んだわけだ。」と語り、エラー(この場合は良介の惨殺)の増殖を予言する。彼は「幸福」の欺瞞性を暴こうとし、良介を責めるが、良介は幸福と愛への信頼を捨てずに殺される。

 「決壊」とは堤防などが切れて崩れる事である。何かを守っているものが、破壊される事と同じだ。ITの世界は人類を守っているのだろうか。それとも人類を破滅へと導くまやかしの福音なのだろうか。崇はその答えを出せずに滅びていく。この世界の「決壊」を防ぐのは、彼らが感じていた「ズレ」を認識し、確かな現実を把握する、いかにも日常的な稚拙な歩みであると実感する。


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