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『リハビリの夜』熊谷晋一郎(医学書院)

リハビリの夜

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「敗北の体験から会得できる官能」

 著者の熊谷晋一郎は32年前に仮死状態で生まれ、脳性マヒになった。小中高と普通学校に通い、東大医学部を卒業。小児科医として病院勤務を経験し、現在は東大先端科学技術センターの特任講師である。大学在学中は地域での一人暮らしも体験している。このようなカレの背景を聞けば、どのように育てたらそんな風に育つのか?などと、熊谷というよりもカレの親御さんに秘訣を聞きたくなる親もいるだろう。


 もちろん、この本は障害者が世間の波風に負けずに出世するノウハウを提供しているわけではないし、学歴重視の親御さん、障害児をもつ親御さんにヒントを与えるために書かれたわけでもない。むしろ、負ける快感について色濃く書かれているヘンな本である。負けの快感から引き起こされる官能を賛美し、規範や一般的な価値観からの逸脱を勧め、エロチックな部分もあるから、頭が固めな人には不向きかもしれない。

 でも、「不随意」や「こわばり」は何も障害者が占有している問題ではなく、多くの人が何かしら不満、つまり「不随意性」を抱えて生きている。だから、真面目に努力しているにもかかわらず、「こんなはずじゃないなあ」などとため息をついている人にとってこそ、これはタメになる本なのである。

 たくさんのエピソードと共に、負けて快感を得るコツや秘訣が書かれている。どこから/どこに焦点を絞って紹介すべきかが、とても悩ましいが、第一に本書の根底には、いわゆる専門職批判、リハビリ批判があるので、ここではその部分について、まず述べることにした。

 従来のリハビリとは「私の中にある健常者向け内部モデルを起動するよう指示される」訓練として、専門職によって授けられてきたのであるが、熊谷はその、リハビリ訓練の何が困ったことなのかを、その身体感覚から丁寧に説明している。

 たとえば、専門職の「まなざし」だ。彼らの「まなざし」が、熊谷にして障害児という自己意識を引っ張り出し、強く身体を強ばらせてしまうのである。トレイナー(専門職)とトレイニー(障害者)の「まなざし/まなざされる関係」における切羽詰まった状況が、克明に何度も叙述されている。

 さらに、トレイナーによる「心への介入が身体をこわばらせる」とも。「主体的に動かして」というトレイナーの「声かけ」は、それが上手にできない熊谷にとって、「自らの自由意思に基づいて運動せよ、という意味ではなく、「私の指示に従え」というトレイナーの命令も込められている。」と感じられる。

「私の体だけではなく、私の努力の仕方や注意の向け方などの内面までもが、トレイナーによって監視されている。このようにして《まなざし/まなざされる関係》のような状況では、うまく動けない責任を「私自身」に負わされるような焦りが生じることになる。」

では、熊谷はトレイナーとどのような相互関係を望んでいたのかというと、それは《ほどきつつ拾い合う》と表現される関係である。

 「《ほどきつつ拾い合う関係》のほどけは、ほどけたあとに支えてくれる他者への信頼のなかで身を委ねるようにして起きるのに対して、《まなざし/まなざされる関係》のほどけは、他者からの命令に自ら「主体的」に従おうとして、一人で自壊するように起きる。」

 どちらのほどけにもある種の官能があるが、前者は「安心な気持ちよさ」なのに対して、後者は「恐怖心が入り交じったような鮮烈な官能」である。後者の官能はやがて、《加害/被害関係》へと発展していくというのだが、本書では「官能」が重要なキーワードである。

 学童期の夏を過ごしたリハビリキャンプで熊谷は、「健常な動きを我が身にすり込むことに失敗した恥辱感と、他者身体にほどかれ拾われる開放感・つながり感が重なっていく」体験を繰り返していた。夜になり、ベッドで毛布にくるまれると、この「快感」がよみがえってくる。夜の闇に守られるように、「毎晩、敗北の官能に胸を鷲づかみされながら」、少年は眠りについたのだ。そして、ついに「性器的な快楽を知る前」に「敗北の官能」というモチーフを産み出してしまう。「負けること」による解放が意識されるようになっていく・・・。

熊谷(の文章)の魅力は、熊谷自身の体験と体験の概念化が織りなす説得力だ。たとえば、トイレと「つながれなかった」カレはいったん「便意」に敗北するが、「失禁」が快楽をもたらす他者として意識され、ドラマチックに展開されていく。

「そこには腹ばい競争のときと似た、焦りとこわばりの悪循環がピークに達して自壊するような、退廃的な「敗北」があった。トイレとはつながることができなかった。しかし、交渉していた腸とは、私が負ける形で和解していった。腹ばい競争のときと同じように、焦りとこわばりは徐々に弱まっていく。

私は再びごろんと床に寝そべり、うとうとしばじめた。時間は止まり、私は少しだけ寝た。」

その後、トイレは改修され、「私の体は、差し伸べられた手にいざなわれるように身体内協応構造を少しだけ緩め、それによって生じたあそびが、身体内協応構造の組み直し=チューニングを可能にする。改装によって姿を変えたトイレに触発されるように、私の体も変わるのである。」

 ここでも読者は「はっ」とするだろう。熊谷が《ほどきつつ拾い合う》関係を築くのは、何も人間だけとは限らない。トイレの他にも、床、電動車椅子、患者の腕、シリンジ、病院でのチームワーク、・・・。これらの事物と身体のつながりの体験が紹介されている。

「モノと向き合い交渉する過程で、私はモノについての情報を得るだけではなく、私自身の身体についての情報も得ることになっていった。」

 

 私は本書によって、身体と他者やモノとの「つながり」について考えさせられ、頑張りすぎては、それらとつながりにくい状況を作り出している自分に改めて気づくことになった。でも、きっと、こんな私であっても、老い衰えゆく体験を「敗北の官能」として楽しめるはずだ。熊谷に共感し、「敗北」しながら周囲の人や事物と穏やかにつながっていきたいと思える私がいて、素直に嬉しい。

 本書が、身体や人生の認知の仕方について、重要な提言をしていることは紹介した文章の断片からも伝わったはずである。なお、この本の表紙や挿絵(イラスト笹部紀成、ブックデザイン祖父江慎+コズフィッシュ)も文章に負けず劣らずキッチュであり、書店でも目を引く。


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