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『文学 2012』日本文藝家協会(講談社)

文学 2012

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「2011年を考えるための1冊」

 年の瀬も押し詰まると、誰しも一年を振り返る事が多くなるだろう。『文学2012』はその一助となる。ただしここに収められているのは2011年の文芸雑誌に掲載された短編である。その意味では、振り返る一年は2012年ではなく、2011年つまり大震災と原発事故によって多くの人の人生が変わってしまった一年である。文学作品(しかも短編)を十数編読んだからといって、あの長かった一年の全貌を捉えられるわけではない。だが、例えレントゲン一枚でも、患部が大きければ偶然その断面を見ることができるように、これらの短編からも見えてくる姿がある。

 田中慎弥の『聖堂を描く』は、小説の取材のためにある町の聖堂を訪れた主人公が、いつまでたっても聖堂にたどり着けない姿を描いている。カフカの『城』のモチーフと似ているが、そこには主人公と現実との不思議な齟齬がある。時のずれではなく、コミュニケーションが成り立っていると思われるのにどこかが違う — 村上春樹とは違った形でのコミュニケーションギャップのような何か、が描かれている。この奇妙な違和感を持った作品が、震災前に書かれているのは興味深い。

 森内俊雄の『梨の花咲く町で』は、文章が緊密で飽きの来ない印象的な空間を作り上げている。ある雑誌に書いた文章の一場面の記憶が曖昧なので、確かめに来た主人公がいる。四国の大谷焼の里の駅に降り立ち、梨畑を見た記憶が問題の場面だ。再びこの地の駅に着いた時「空というのは、ふつう仰いでみるもので、高いところにある、と決めてかかっている。ところが、ここでは空がホームにおりてきていた。」と感じる。視覚と皮膚感覚に訴える幻想的なシーンである。記憶と時、場の関係を上手く繋いだ結末は、心地よいものとなっている。

 古井由吉の『子供の行方』では、大震災による津波の映像から終戦末期の空襲の記憶がよみがえる。実際に経験した悲惨な状況の記憶に音がない、視覚と聴覚の奇妙なずれが描かれる。恐怖の体験から逃れることはできない。しかし、いつでも、どこでも「日常」がある。その違和感に満ちた世界を「背後を見れば、ついさっきまで有ったはずのものがことごとく無くなっている。そればかりか、うかつに振り向けば、のがれてきたばかりのものに呑みこまれそうな恐怖に、追いつかれかねない。そして目の前には、劣らず不可解にも、日常がある。変わり果てた境遇でも、日常は日常である。」と表現する。世界を解釈するのではなく、ただ確認することしかできない覚めた意識がそこにある。

 木村友祐の『イサの氾濫』は直接的に大震災と結びついている。主人公は青森の八戸出身であり、東京で暮らしているが、明確な存在証明を持てないままに、暴力的で破天荒な叔父「イサ」に興味を持ち、彼について調べるために郷里に行く。八戸は「一人の死者しか」いなかったために、大した被害ではないと思う主人公は、父を含む故郷の人々の苦しみを理解できない。被害者が一人に過ぎないという意識は、死者が多かった他の地方の人々よりも被害者意識を持つべきではいという、間違った考えを導く。

 かつて、シベリヤのラーゲリから帰還した石原吉郎は、自分が広島の目撃者でなかった故に、広島についてどのような発言をすることも拒んだ。ジェノサイドという事実の受け止め方に疑問を持ったからだ。多くの人の死を統計的に捉えると、そこでは個々の悲劇が見えなくなる。「百人の死は悲劇だが、百万人の死は統計だ」と言ったアイヒマンの言葉に、石原は共感する。

 主人公の将司は、角次郎からそのたった一人の死者の「ドラマ」を聞いて、何も言えなくなる。大勢が死んだから大変だという考えは、残された人々の心を全く理解していない。遺族にとって「大勢」などは何の慰めにもならない。彼らにとっては、たった一人のかけがえのない存在こそが重要だからだ。「がんばって」という言葉の持つエゴイズムと難しさも、現地の人々の心境から見事に表現されている。2011年が生んだ珠玉の作品と言える。

 他の作品も、時代を切り取り、私たちの今を逆照射する意味において、非常に興味深い。


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