『漱石の長襦袢』半藤末利子(文春文庫)
「人間漱石を知ることのできる一冊」
調べたことはないが、書いた作品数に比べて、書かれた評論やエッセイ等が非常に多いのが、夏目漱石の一つの特色ではないだろうか。研究書は無数に出版されているし、エッセイ等も弟子達のみならず家族の側からも書かれている。かつては漱石の妻の鏡子が「ソクラテスの妻」であったという定説があったが、それは弟子達によって作られた偏った像であって、実際にはかなり違ったものであるようだというのも、家族等の証言によって明らかになっている。
漱石の長女の筆子は漱石門下の作家松岡譲と結婚している。彼等の間に生まれたのが『漱石の長襦袢』の著者である、半藤末利子だ。夫は著名な昭和史研究家の半藤一利。末利子は漱石を直接知らないものの、鏡子のことは良く知っている。また母の筆子や中根家(鏡子の実家)の人々から聞いた話も色々と披露してくれる。
トルストイだか誰だったか忘れたが、一流の作家であっても、常に作品のことを考えているわけではなく、一日の殆どは、今日の晩飯は何だろうかとか、また胃が痛くなりそうだとか、昨日の新聞はどこへやったか等といった、些細なことを考えていると言ったというのをどこかで読んだ記憶がある。漱石とても、一人の人間である以上、雑念から逃れられていたわけではないだろうし、それこそが作家を造り上げていった要素であるかも知れない。
漱石に精神的に不安定な時期があったことはよく知られているし、その時に子供達に対して理不尽な態度を取ったことも多かった。だが筆子から直接聞いた末利子の話は説得力がある。筆子も「些細なことでムシャクシャする漱石にこづかれたりぶたれたり」したようだが、それよりももっと可愛そうだったのは、漱石が英国留学中に生まれた恒子だった。「何かにつけて漱石は恒子を目の敵にし、ある時はごみを捨てるようにポイッと庭に赤ん坊を放り投げることもあったという」のだから、凄まじいものである。
漱石の死後、松岡譲は漱石山房を公的な遺産として残すために奔走する。今から考えると、至極当然な処置に思える。だが、弟子の中では末席に位置する松岡が筆子と結婚したのだから、高弟たちは彼の意見に聞く耳持たなかったようだ。鏡子は賛成したのだが、結局弟子たちは首を縦に振ることは無かった。それ故に、日本を代表する作家である夏目漱石の記念館は存在しない。漱石生誕150年にあたる平成29年に向けて「漱石山房」記念館計画が新宿区主導で進んでいるのは、何と今現在なのである。
有名な「修善寺の大患」の裏話も興味深い。漱石が滞在していた菊屋の大女将の証言である。当時おせんという女中が漱石の担当で、一部始終を目撃していた。「五百グラムの血を浴びせかけ」られた鏡子は「あわてず騒がず冷静そのもの」で、種々の手配をする。そして「病人には勿論のこと、客達にも心から優しく接し」た。大女将は言う「さすが明治の女性は見事で、修善寺では奥様の悪口を言う者は一人もおりません」病人や弱者には優しい鏡子の一面が理解できる。
他にも、切れ味の良い、珠玉のエッセイが沢山詰まっている。漱石フアンにはこたえられないであろうし、人間漱石を知る上でも非常に役に立つ。漱石を神格化するのは簡単だが、神様の書いたものがこれほど長い間皆に愛され読まれるとは思えない。末利子の次の一言が、漱石文学の神髄を見事に言い当てている。「女房と大喧嘩し、病気とはいえ、女房や子供に対して狂気の沙汰を演じ、強情を張り通し、悩み、苦しみ、度重なる病と闘い、でも権力には決して屈しない、欠点の多い人間の書いた、血の通った小説」