『ロスト・トレイン』中村弦(新潮文庫)
「幻の廃線跡を走る汽車」
中村弦の『ロスト・トレイン』を読み終えた時、宮崎駿の引退が悔やまれた。まだ「風立ちぬ」は観ていないが、宮崎は種々の作品で、人と自然との関わり方について、問題を提起してきた。『ロスト・トレイン』も現代文明と自然とのあり方を私たちに考えさせてくれるし、何よりも「向こう側」の汽車の映像は、アニメーションにこそ相応しいと思えてならないのだ。
主人公の牧村は、幼い時に暮らしていた街の面影を追いかけ、次に廃墟を訪れ始める。最終的には鉄道の廃線跡に興味を持ち、時間ができると廃線跡を歩いている。そんな時、年季の入った鉄道ファンである平間と出会い、鉄道や廃線について色々と教えてもらう。平間は一つの伝説を語る。「日本のどこかにまだ誰にも知られていない、まぼろしの廃線跡がある。それを見つけて始発駅から終着駅までたどれば、ある奇跡が起こる。」
ある日平間は忽然と姿を消してしまい、牧村は平間を捜し回る。その途中で知り合った倉本菜月と共に、平間の痕跡を追い求める。鉄道に関する知識が至る所にちりばめられていて、鉄道ファンのいわゆる「テツ」にとっては、たまらない作品であろう。私自身は鉄道にそれほどの思い入れはないが、それでも小さい時にトンネルに入る前に窓を閉め忘れてワイシャツに煤が着いてしまったり、通路に新聞を敷いて座ったり、蒸気機関車に乗って学校に通ったりした記憶は懐かしい。
平間の足跡を探し求める内に、牧村たちは平間が伝説の廃線跡を発見し、「奇跡」を見に行ったに違いないと確信する。やがて彼等も東北地方にあるその幻の廃線跡を発見し、歩き始める。そこで「向こう側」の汽車と出会い、終着駅では「奇跡」を目撃し、彼等もその汽車に乗り込んでしまう。終点まで乗ると、向こう側に行ってしまい帰って来られなくなるが、手前の駅で降りるとこちら側に戻ってこられるという、究極の選択に迫られる。
「奇跡」とは何であり、彼等の選択が何であったかは、書かないのがマナーであろう。東北地方の片田舎を走るこの幻の汽車は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を連想させる。だが賢治の作品の汽車は「死者を運ぶ」ものである。それ故にカンパネルラは降りることができずに、ジョバンニは降りてしまうのだ。だが『ロスト・トレイン』は死者を運ぶ汽車ではないようだ。平間は確かにこの列車に乗っているのだが、悲しい様子は見られない。廃線跡のトンネルでこの汽車とすれ違う時、牧村は平間と話をする。平間によると「向こう側」の世界は一種のパラレルワールドであり、彼はこちら側の現実に何か違和感を感じていて「自分がほんとうの自分でいられる場所が、どこか遠くにあるような気がして、そこへ行くことができたらと無意識のうちに望んでいた」そうである。つまり平間は今幸せなのである。それ故に牧村や倉本の選択は難しくなる。
登場人物の心境描写に浅い面があり、最終決断のシーンも少々安易に見えるが、資料を駆使した臨場感のある構成は楽しいし、ジブリの森を散策するような廃線歩きも五感に訴えてくるものがある。秋の夜長に、本書で旅を楽しんでみるのも悪くない。