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『障害受容再考――「障害受容」から「障害との自由」へ――』田島明子(三輪書店)

障害受容再考――「障害受容」から「障害との自由」へ――

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自分自身がぼんやりと感じた違和感に徹底してこだわりなさい、と社会学ではしばしば教えられます。というのも、そうした違和感は、日々の生活の中では流されてそのままにされがちですが、実は非常に重要なテーマにつながることが少なくないのです。


この本の著者の田島さんは、作業療法士としてのキャリアを、障害者の生活支援のための施設からスタートさせました。そこで彼女は次のような経験をします。どう評価しても一般就労は難しいと思われている人が「一般就労がしたい」と言うと、症例報告会や職員間の会話で「あの人は『障害受容』ができていない」と言われるのです。これを聞いて田島さんは、「もし私がクライエントの立場なら、そのようにこの言葉を用いられたら、とても嫌だな」と思ったといいます(『障害受容再考』ⅳおよび2~3ページ)。そしてこのぼんやりとした違和感は、その後の研究を通じて育まれ、この本を貫く問題意識へと発展しています。

本の構成としては、前半の第4章までで、リハビリテーションの専門誌における「障害受容」の語られ方や、障害のある人へのインタヴュー、そして南雲直二氏の「社会受容」論の検討を通して、上に述べた問題意識が暖められ、続く第5章からは、リハビリテーション臨床で働く7名の作業療法士へのインタヴューを起点として、「障害受容」に関する考察が行われます。それによれば、「障害受容」という言葉には、自分の身体を思い通りに制御し生産活動を行う「能力」を標準とし、リハビリテーションによってそこに近づくべきだとする「能力主義的障害観」が染みついています。このような障害観が押し付けられることは、クライエントが別様の障害観を探す道を閉ざすことにつながります。そこから抜け出すためには、能力の回復・改善を軸にしないハビリテーションの在り方が模索されなければなりません。それについて田島さんは、能力の回復・改善を第一義的な目標とはせず、身体を介した対話を通してクライエントの身体の世界に意味を与えていくような営みに、可能性を見い出しているようです(『障害受容再考』「補遺」より)。

「受容」をめぐる繊細な側面については、私も常々感じるところがあったので、それに正面から向き合う田島さんの問題関心には大いに共感します。私がこれまでセルフヘルプ・グループ等で会ってきた人たちは、自分の変化を表わすために「受け入れる」という言葉を使うことがありました。しかし、他の人に「あなたは病いを受容していますね」などと言われると、「う~ん、そうなのかな」と当人は首をかしげる、そんな場面に少なからず遭遇してきました。他方、治療や援助の専門家が病いをもつ人の状態を指して「あの人は受容できていない」と表現する場面はしばしばありました。どうやら、この「受容」という言葉は、専門家が、病いをもつ人が不在の状況で使う言葉である、という傾向が見受けられます。

さて、ここからさらに次のように考えを進めてみます。たとえば、リハビリテーションの過程において、セラピストの方がクライエントの能力の回復・改善に向けて頑張っているのに、肝心のクライエントがそれに付いていっていないという状況がありえます(このような状況を便宜的に<状況A>と呼びます)。この状況では、確かに、セラピストの目標に含まれる固定観念(「能力主義的障害観」)がクライエントに押し付けられるかっこうになっており、したがってそこから自由になること(この本では「障害からの自由」と呼ばれています)が重要と考えられます。しかし、たとえば、セラピストが、損傷等を負った身体部分の機能の回復を諦めて、他の身体部分や補助器具などを使って生活することを目標にしましょうと言うのに、クライエントの方がなかなかそれに「うん」と言わないケース(この本の30ページで言及されているものです)、あるいは、既に挙げた、どう評価しても一般就労は難しいと思われている人が「一般就労がしたい」と言うようなケースについては、どうなのでしょうか。これらの状況(便宜的に<状況B>と呼びます)においては、セラピストよりもむしろクライエントの方が「正常な身体」にこだわっており、「能力主義的障害観」も色濃く表れています。

このように<状況A>と<状況B>とは異なっているにもかかわらず、「障害受容」という言葉は、両方について便利に用いられる言葉になっています。つまり、「能力主義的障害観」がセラピストとクライエントのどちら側にどのような濃淡で表れており、それがいかなる意味でクライエントの苦しみにつながっているのかという点について、この「障害受容」という言葉は何ら分析性能を発揮せず、クライエント個人の心の問題としてひとくくりに扱っています。その一方で、「あの人は受容できていない」とさえ言ってしまえば、専門家の方は、状況がもたらす閉塞感やストレスからとりあえず身を引きはがし、自己を防衛することが可能になります。このように、クライエントの経験に対してはおおざっぱでありながら、専門家にとっては自己防衛の機能をしっかり果たす都合のよさがこの言葉にはあり、それが田島さんはじめ少なからぬ人に違和感を抱かせているのではないか、と思えるのです。

<状況A>では「能力主義的障害観を押し付ける専門家」対「押し付けられるクライエント」という図式が一見して成り立っていますし、そこから「自由」になるべきだ、という言い方もわかりやすい。しかし<状況B>となると、先の図式は必ずしもあてはまりませんし、そこから「自由」になるという理想像も、一筋縄では語れなくなるように思います。これは、リハビリテーションにおけるセラピストとクライエントの関係だけに収まらない非常に大きな射程を持つテーマだと思います。

自分自身のぼんやりとした違和感にこだわり続けることで、やがて大きなテーマにつながることを、この本は端的に示しています。何か完成したものを「与えてくれる」というタイプの本ではなく、むしろ未整理で未完成な部分を残しながら、読者にいろいろなことを考えさせるタイプの本です。部分的には一読の限りでは難解なところもあるかもしれません。それでも、願わくばセラピストの卵たちのすべてがこの本を読んで<考え悩む>セラピストになって欲しいと思います。病いの社会学からみて重要な一冊に挙げられる本です。


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