『核と女を愛した将軍様』 藤本健二 (小学館)
金正日の元料理人、藤本健二氏の三冊目の本である。二冊目がまったくの二番煎じだったのでどうかと思ったが、先日、金正日の四番目の夫人と報じられた金玉女史の写真が載っているので買ってみた。
今回の本も六割か七割はこれまでの本の内容と重複するが、未公開の写真が追加され、新しいエピソードがかなりはいっている。前二作は将軍様の私生活に限定されていたが、今度の本では公的生活についても言及されている。著者は北朝鮮では秘書室の指導員という身分で働いていた。専属料理人とはいっても、秘書室の中に自分の席をもっていたのだから、公的な情報も耳にはいってきたはずなのだ。
2000年の訪中から帰った将軍様を白頭山招待所で出むかえた件は前著で語られていたが、将軍様が中国の経済発展に心底感銘を受けていたという話は今度の本ではじめて出てきた。これはかなり重要な証言である。贋札や麻薬の話も出てくるが、将軍様は日本の一万円札は難しいと言っていたそうである。
著者はプライベートな立場の人間のところに、どのように表の情報が流れてくるかを明かにしている。直接の見聞がどこまでかも明確にしており、著者の証言は信憑性が高いと思う。
金日成の死の直後の時期にふれた以下の条は気になる。
主席死去後、将軍に初めて会ったのは、7月も半ばを過ぎてからのことだった。将軍は本当に悲しんで、憔悴しきっていた。まるで1週間も10日も食事をしていないのではないかと思うほど、げっそりしていた。
後で聞いた話では、心配した高英姫夫人が執務室にいる将軍の様子を見に行ったところ、将軍がピストルを手にしてじっと見つめていたという。それで夫人が驚いて、ピストルを取り上げたらしい。
萩原遼氏は『金正日 隠された戦争』で、金正日による父親殺し説を述べているが、上記の証言が正しいなら、殺害を命じたなどということはないだろう。しかし、いくら突然の死とはいえ、自殺を考えるほど落ちこんでいたとしたら、深い罪悪感をいだくようなことしたと考えるのが自然だろう。路線対立が金日成の死を早めた可能性はかなりあると思う。
また、金正日一家(いわゆる「ロイヤル・ファミリー」)についても、これまでになく踏みこんだ話が出てくる。
今回、将軍様ファミリーについてここまで書いたのは、高夫人が亡くなったことが関係しているだろう。著者は高夫人にたびたび助けられており、きわどいところで日本に帰れたのも高夫人のおかげだった。高夫人に遠慮して、書くのを控えたとしても仕方ないだろう。
将軍様の秘書兼愛人であるオギ同志こと
本書で一番重要なのは次の条だと思う。
実は将軍に近い高級幹部たちでも、もらっている給料はそんなに多くはない。高給幹部といえども、給料だけでは贅沢な暮らしはできないのだ。彼らはこうした宴会に呼ばれて、将軍に気に入られてようやく、高価なプレゼントや高額の小遣を手にすることができる。
しかし、いったん将軍の前でミスすれば、しばらくこうした宴会には呼んでもらえなくなる。まさに天国と地獄、アメとムチのあいだで、幹部たちは泳がされているのである。
マカオで凍結されたのは将軍様のポケットマネー27億円にすぎなかったが、この外貨がないと、将軍様は幹部の忠誠心をつなぎとめることができなくなる。北朝鮮がアメリカに金融制裁解除をあの手この手で懇願している理由はここにある。
万景峰号の入港禁止もこたえているだろう。北朝鮮の船で冷蔵倉庫をそなえているのは万景峰号だけだそうである。万景峰号が日本にはいれなくなることは、日本から高級食材を入手できなくなることを意味する。将軍様ファミリーの分だけなら空路で調達できないことはないが、毎晩宴会を開き、松阪牛を気前よく土産に持たせてやるには、万景峰号が必要なのである。
著者はエピローグで、将軍様にはフセインのようなみじめな末路をたどってほしくないと書いている。前作、前々作の「あとがき」の将軍様へのメッセージとはまったく違い、終わりにはっきり言及している。こんな思いきったことを書くのは、金正日体制の崩壊が迫っていると予感しているからではあるまいか。