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『猿飛佐助からハイデガーへ』 木田元 (岩波書店)

猿飛佐助からハイデガーへ

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 木田元という名前はメルロ=ポンティの翻訳で知った。訳文は哲学書の翻訳とは思えないくらい読みやすく、含蓄があった。『眼と精神』は何度も読みかえしたが、内容もさることながら、訳文の魅力が大いにあずかっていたと思う。

 フランス哲学をやっているから翻訳がうまいのだろうと思っていたが、1993年に岩波新書から出た『ハイデガーの思想』で、実は若い頃から一貫してハイデガーを研究している人だと知った。木田は堰を切ったように『ハイデガー『存在と時間』の構築』、『ハイデガー拾い読み』、『ハイデガー』、『ハイデガーの知88』等々、ハイデガーを主題とした本を上梓したが、それと平行して『偶然性と運命』や『闇屋になりそこねた哲学者』など、波瀾万丈の半生を描いた著作で、なぜハイデガーに引かれるようになったかを語りはじめた。

 波瀾万丈と書いたのは誇張ではない。木田は満洲で育ち、海軍兵学校に入学する。ここまではエリート・コースだが、終戦で学校を放りだされてからは、九州から東北まで転々とし、テキ屋の親分の世話になったこともある。ようやく家族が満洲から引きあげてくるが、父親がソ連に抑留されたために、かつぎ屋をやって一家を支えなければならなくなる。畳表の闇商売で大儲けをしたのを機に農業専門学校にはいるが、農業をやるつもりはなく、無頼な生活をつづけるうちに『存在と時間』という本の存在を知る。戦前の翻訳で読んでみたが、まったく歯が立たず、一念発起して東北大学の哲学科に入学する。哲学に興味が阿たわけではなく、『存在と時間』という本を読むためだけに哲学科にはいるというのは本の虫の面目躍如足るものがある。

 もちろん、これぐらいの波瀾は当時としては珍らしくなかったのかもしれないが、大学の先生としてはかなり異例である。こういう経歴をたどったからこそ、哲学者らしからぬ立派な日本語が書けるのかもしれない、とさえ思う。

 さて、本書は「グーテンベルクの森」という自伝的読書論のシリーズの一冊として出た。山あり谷ありの半生は『闇屋になりそこねた哲学者』で尽くされているが、本書ではいつどんな本を読み、どんな影響を受けたかという視点から、人生をふりかえっている。

 本書に書いてある内容は過去の本であらまし知っていたのであるが、それでも時間を忘れて読みふけってしまった。勉強したい、本を読みたいというひたむきな情熱が行間からあふれだしていて 、二番煎じをまぬがれているのである。

 本をめぐるエピソードが何といってもおもしろい。農業学校で荒れた生活を送っていた頃、なぜか天明俳諧にはまってしまい、『日本名著全集』でしか読めない作品を読むために、闇商売でためた大枚をはたいて全巻揃いを買ったという。何を読みたかったのかというと、こういう繊細な作品なのである。

柳ちるや少し夕の日のよわり

影見えて肌寒き夜の柱かな

木枯や西日にむかふ鳩の胸

 テキ屋朝鮮人とわたりあう荒くれた生活の中で、こういう句に心を動かすとはやはり異能の人というべきか。

 東北大にはいってからは、洋書の輸入が途絶していた時代なのでテキストがなく、図書館の本を手で書き写したそうである。

 ハイデガーに関する部分がやはり一番力がこもっている。戦前の留学生が持ち帰ったハイデガーの『現象学の根本問題』の講義録の海賊版を80部作り、全国の研究室に売りさばいたなんていう話も書かれているが、50代になって『存在と時間』の全貌が氷解する条は読ませる。

 『存在と時間』については『ハイデガーの思想』と『ハイデガー存在と時間』の構築』という行き届いた本があるが(どちらも「偉い学者の書いた薄い本」である)、本書ではメルロ=ポンティの『行動の構造』との関連で語っており、なるほどと思った。「時熟」と訳されてきた sich zeitigen についても、眼の醒めるような解説をおこなっている。

 時間性との関連で、フォークナーの『アブサロム、アブサロム』とバルザックの『暗黒事件』、安部公房の『榎本武揚』の三冊を並べて論じた条は感動的である。

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