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『甦る怪物 ― 私のマルクス ロシア篇』 佐藤優 (文藝春秋)

甦る怪物 ― 私のマルクス ロシア篇

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 表題からすると『私のマルクス』の続編のようだが、実際は『自壊する帝国』の続編である。

 前著は歴史の現場に立ち会った人の証言として圧倒的な迫力があったが、本書では崩壊の必然性が本格的に考察されるとともに、崩壊の瓦礫の下からせりあがってきたロシアの底力が描きだされている。表題にいう「甦える怪物」とは新生ロシアにほかならない。

 本書はソ連崩壊の翌月、モスクワ大学哲学部宗教史宗教哲学科(かつての科学的無神論学科)のポポフ助教授からプロテスタント神学の講義を依頼されるところからはじまる。

 哲学部というと日本の感覚では浮き世離れした変人の集まりという印象だが、ソ連では最優秀のエリートを養成する学部だった。ソ連では政治学ブルジョワの学問として禁止されていたので、科学的共産主義学科が西側でいう政治学科に相当し(ソ連崩壊後に政治学科に改称されている)、共産党エリートの登竜門となっていた。著者と関係の深い科学的無神論学科は発禁書にアクセスすることができるので非常に倍率が高く、優秀な学生が集まっていたという。

 逆に法学部は卒業してもうまみがないので(ソ連時代、弁護士には離婚訴訟くらいしか仕事がなかった)、成績の悪い学生がいくところだった。ゴルバチョフは法学部の出身である。

 本書の前半は「プロテスタント神学」を受講した教え子たちの物語である。学生だからといって侮ってはいけない。著者の授業にはソ連崩壊を象徴するような「濃い」学生が集まっていたのである。

 たとえば、アフガン帰還兵のアルベルト。著者はアルベルトを通してアフガン戦争の実態をはじめて知るが、われわれ読者にとっても衝撃的な内容である。

 また、核開発の拠点となっていた秘密閉鎖都市出身のナターシャ。彼女の父親は核物理学者で特権階級の暮しをしていたが、ソ連崩壊で収入と誇りをなくし、人格が壊れていった。彼女は著者の依頼する翻訳の仕事で一家を支えつづけるが、それでは追いつかなくなり、研究者の道をあきらめてマフィアの愛人に身を落とす。

 こういう修羅場をくぐった世代が官僚や政治家となって今のプーチン=メドヴェージェフ政権を支えているのである。

 佐藤氏は月60万円の在外勤務手当のうち、千ドルで学生にアルバイトを依頼したり教材を無料で配布したりしたそうだが、実に有効な使い方をしてくれたと思う。蓄財しか考えない外務省職員が煙たがるわけだ。

 本書の後半は民族学研究所の学者たちとの交友記だが、こちらも学者だと侮ってはいけない。ソ連では表向きは民族問題は解決したことになっていたが、崩壊後の混乱で明らかなように解決などしておらず、もっともデリケートな問題だった。当然、少数民族に関する情報が集積している民族学研究所は、ソ連時代、西側の外交官は絶対に近づけない聖域で、ソ連崩壊後も研究所出身者が民族政策を策定する枢要な地位についた。

 プロテスタント神学の専門家という学者の顔をもつ著者は民族学研究所の門をたたき、一人のインテリゲンチャとして信頼を得て、自由に出入できる資格をあたえられる。

 いりくんだ話なので本書を読んでほしいが、ソ連崩壊の最大の原因は民族問題、それもイスラム問題にあったようである。ソ連にとって致命傷となったアフガニスタン侵攻にしても侵攻せざるをえない事情があり、しかもそれはソ連建国にさかのぼる根深い事情だったのである。

 『自壊する帝国』と『甦る怪物』をつづけて読んで、わたしのソ連=ロシア観は根底から変わった。ロシアは底が知れない。

 なお、『国家の崩壊』はソ連崩壊とロシアの再生を『自壊する帝国』・『甦る怪物』の二部作とは別の角度から考察しており、あわせて読むと理解が深まるだろう。

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