『ロラン・バルトの遺産』 マルティ&コンパニョン&ロジェ (みすず書房)
2010年はバルトの没後30年にあたるが、三人の弟子の文章を集めた本が出版された。『ロラン・バルトの遺産』である(本書は日本で独自に編集されたもので、この通りの本がフランスで出ているわけではない)。
三人の著者はバルトが亡くなった時、25歳から31歳だった。彼らは20代で晩年のバルトに出会い、親しく教えを受けたのである。
三人のうち一人はコレージュ・ド・フランス教授、もう一人は高等研究院教授と、かつてバルトが占めていた地位を襲っている。彼らがその地位についたのはバルトの死から20年以上たってからだから、バルトから譲られたわけではなく、実力で勝ちとったのである。バルトは立派な弟子を育てたといえるだろう。
まず、エリック・マルティの「ある友情の思い出」(2006)である。マルティは『シャトレ哲学史』で知られるフランソワ・シャトレの甥で、21歳の時にバルトと出会い高等研究院のセミナーに出席することを許され、後に個人秘書のようなことまでしている。
マルティはバルトの雑事を手伝うために毎日のようにバルトのアパルトマンに通い、夕食をともにしていたようだ。回想はきわめて濃密かつ親密で、ひょっとしたらそういう関係かという疑いが誰しも浮かぶと思うが、終わり近くになって以下のような文章が出てきた。
しかしながら、師自身が同性愛者であるというのは、弟子の性的傾向がなんであれ、よいことだと思う。なぜなら、師との関係がつねにきわめてリビドー的(知識欲の)となるからである。エロスとロゴスの混同が、たとて軽くとも実際にあるかぎりは。知識が、たとえ間接的にであれ、欲望をになっているかぎりは。
師と弟子のあいだには何も起こらない。しかし、それでもふたりは、エロスとロゴスが声を、ときおり視線を、ときには身ぶりをかわしあう領域に生きているのである。
親密ではあるが、あくまで精神的な関係にとどまっていたというわけである。バルトは『偶景』に男娼漁りの日々をあけすけに書いているが、マルティは師のそうした夜の顔はまったく知らなかったという。
夜の顔を知らなかったのが事実にしても、秘書と言うか雑用係としてバルトの身近にいた人だけに覗き見趣味はこの文章がもっとも満足させてくれる。
フーコーと一時仲たがいしたのはバルトがフーコーの恋人と親しげに会話したのをフーコーが嫉妬したからだとか、ドゥルーズとバルトは馬があったが、バルトが新哲学派について書いた好意的な文章が公開されると、新哲学派に批判的なドゥルーズから呼びだしをうけたとか。それにしても、構造主義とかポスト構造主義といっても、フランス現代思想のお歴々はみんな同じサークルの仲間だったことがよくわかる。
ゴシップはともかく、マルティの回想でもっとも重要なのはバルトの母と小説の準備を語ったくだりだろう。たとえば、こんな具合だ。
非常につよく感銘をうけたので、彼女に会うたびに彼女の言うことにとくに注意するようになったのだが、それは、緩徐がバルトと同じ言葉づかいえ話していたということだった。なんと言えばよいのだろうか。彼女の口にすることすべてのなかに、「バルト」的ないくつかの言葉や抑揚、口調、精神があったのである。あたかも、ほんとうに彼女はまさしく母語であり、バルトはそこから汲みとって書いているかのようだった。いちばんふしぎなのは、その言葉づかいや精神は、もっとも単純な語のなかに感じられるということだった。そして、さようならと言うときの首のかしげかただけにも、『恋愛のディスクール』の一節を読むように見出せるのだった。
この見方は非常に説得力がある。多分、その通りなのだろう。
さて、二番目はアントワーヌ・コンパニョンの「ロラン・バルトの<小説>」である。この論考は「架空の書物」をテーマにした2001年の国際集会で発表された後、リール第三大学の紀要に掲載された。バルトが最晩年に構想して果たせなかった<小説>は書かれざる書物の一つとして文学史に記録されるようになったわけである。
バルトは『新生』という小説のプランを立てていたが、ついに書くことなく終わってしまったというのが大方の見方だが、コンパニョンはそれをくつがえしバルトは<小説>をすでに書いていると主張する。晩年の三部作『彼自身によるロラン・バルト』、『恋愛のディスクール・断章』、『明るい部屋』がバルトの<小説>だというのである。
根拠とするのは『小説の準備』で、三部作はそこで論じられる<小説>の条件をすべて満たしているというのだ。『小説の準備』はこれから書かれる<小説>を考察したわけではなく、すでに書かれていた<小説>の考察だという逆転の発想である。
見方としては面白いが、説得力があるか問いと微妙なところだ。