書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『喪の日記』 バルト (みすず書房)

喪の日記

→紀伊國屋書店で購入

 バルトはサリトリウムで1943年から『ミシュレ全集』の抜き書きをはじめたが、その時使ったのがインデックス・カードだ。バルトは以後、メモや原稿の執筆をカードでおこなった。短い断章形式にはカードが向いているが、カードが断章形式をうながした面もあるかもしれない。1980年に亡くなった時には一万三千枚のカードが残されていたが、そのうち三二〇枚は「喪の日記」というタイトルで日付順に束ねられていたという。

 「喪の日記」カード群は1977年10月26日――バルトの母が亡くなった翌日――にはじまり、ほぼ二年間書きつがれた。バルトは最愛の母を失った悲しみを『明るい部屋』の執筆で克服する。「喪の日記」カード群はバルトの二年間の「喪の仕事」の記録だが、わざわざまとめておいたのは執筆の材料にしようという意図があったのかもしれない。

 バルトの遺稿は1996年、異父弟ミシェル・サルゼドによって現代出版史資料館に寄贈されたが、カードについては内容がきわめてプライベートという理由で公開が禁止されている。

 ただ「喪の日記」カード群については内容の重要さと没後30年近くたったということで遺族が公開を了承し、2009年2月、現代出版史資料館学芸員のナタリー・レジェがテキストに起こして刊行された。その邦訳が本書である。

 バルトは失恋の悲しみを『恋愛のディスクール・断章』という傑作に昇華させたが、本書は(すくなくともそのままの形では)公開を予定しない日記であるから、ナマな言葉が書きつづられており昇華とは縁遠い。遺族が公開を躊躇ったのもわかる気がする。

 驚いたのは悲しみ一辺倒かと思ったら、いきなりエロチックな文章が出てくることだ。

 母の死の翌日の日付のカードにはこうある。

新婚初夜という。

では、はじめての喪の夜は?

 その次の日はこうだ。

「あなたは女性のからだを知らないのですね?」

「わたしは、病気の母の、そして死にゆく母のからだを知っています。」

 母を異性として意識しているということだろうか。弟子のエリック・マルティの回想(『ロラン・バルトの遺産』所収)によるとバルトの母は母性的なところはまったくなく、80歳をすぎても娘々した女性だったらしい。

 バルトは11月頃、母の少女時代の写真を発見し、『明るい部屋』として結実する写真論を書くことを思いたつが、そのことをうかがわせる記述は1977年中には見当たらない。写真論の構想が出てくるのは翌年の3月になってからである。

――「写真」についての本にとりかかる自由な時間を(遅れをなくして)早く見つけたいと思う(数週間前から気持ちをたえず確かめている)。つまり、この悲しみをエクリチュールに組みこむことだ。

 書くことがわたしのなかで愛情の「鬱滞」を変え、「危機」を弁証法化して行く、という信念と、おそらくは確証がある。

 その一ヶ月後にはこれから書く本は母の「記念碑」にすると決意を述べている。

 思い出すために書く? 自分が思い出すためではなく、忘却がもたらす悲痛さと闘うためだ。忘却が、絶対的なものになるであろうかぎりは。――やがては――どこにも、だれの記憶にも、「もやはいかなる痕跡もなくなってしまう」ということ。

  「記念碑」をつくる必要がある。

  彼女ガ生キタコトヲ忘レルナ

 もっとも、本の準備には一年以上かかり、実際に執筆をはじめたのは翌年の「小説の準備Ⅰ」の講義が終わってからだった。執筆開始直前の時期のカードから引く(文中のMは異父弟のミシェル)。

 わたしは後世に残ることなど、いっさい気にかけずに生きている。死んだあとも読まれないなどとは、まったく望んでいない(ただ金銭的にはMのためになりたいと思うが)。完全に消滅することを全面的に受け入れており、「記念碑」を残したいとは全然思わない――だが、マムもそうなってしまうということには耐えられない(彼女は書いたものを残さなかったので、彼女の思い出は完全にわたし次第だからであろう)。

 いやはや怪物的なマザコンである。マザコンもここまで徹すると、芸術を生みだすということだろうか。『明るい部屋』という本の途方もなさがすこしだけわかったような気がした。

→紀伊國屋書店で購入