『望遠鏡以前の天文学』 ウォーカー編 (恒星社厚生閣)
天文学は望遠鏡の登場で大きく変わったが、本書は望遠鏡以前の天文学を17章にわけて通覧した論集である(邦訳版は13章)。副題に「古代からケプラーまで」とあるが、ヨーロッパだけではなく、インド、イスラム圏、極東(中国・朝鮮・日本)、さらには邦訳では割愛されてはいるが、マヤ、アステカ、アフリカ、大洋州(アボリジニー・ポリネシア・マオリ)、先史巨石文明時代のヨーロッパまでおさえている。この目配りのよさは大英帝国の遺産かもしれない。
執筆者も多岐にわたり、英米の大学や博物館に籍をおく天文学史、科学史、古典学、考古学の専門家が参加している。中には天文学を専攻したことのある投資家という肩書の人もいるが、趣味で研究をつづけているのだろうか。
個別に見ていこう。
「エジプトの天文学」(ウェルズ)
古代エジプト人は一年を365日とする暦を用いていたり、星の位置によってナイル河の氾濫の時期を予測するなど、高度な天文知識を有していたが、その知識は神話とないまぜになっていた。古代エジプト人は天の川を裸の女神ヌウトに見立て、春分の日の日没地点と重なる双子座を口に、冬至の日に日出地点と重なる白鳥座のデネブを産道の出口に擬していた。春分から冬至までは人間の妊娠期間にほぼ等しいことから、古代エジプト人は一陽来復を女神ヌウトの出産と考えていたという。
エジプト文明は長大なナイル河流域で発展したので北のデルタ地帯の上エジプトと南の溪谷地帯の下エジプトにわかれるが、暦も上エジプトの太陽太陰暦と下エジプトの太陽恒星暦にわかれていた。上下エジプトが古王国時代に統一されると下エジプトの暦が上エジプトの暦の特徴をとりこみながらエジプト全土に広まっていった。
「メソポタミアの天文学と占星術」(ブリトン&ウォーカー)
牡羊座、牡牛座、双子座、蟹座……という星占いでおなじみの十二星座はメソポタミアの先住民族、シュメール人の文化にさかのぼる。メソポタミアは天文学と占星術の揺籃の地だった。
シュメール人を征服したバビロニア人は天体観測を引きつぎ、宗教上大きな存在だった月の運行を予想しようとした。曲線を折れ線で近似する概算法や60進法はバビロニア人の遺産である。ギリシア天文学がメソポタミアの天文学から受けた影響は従来いわれていた以上のものがあるらしい。
「プトレマイオスとその先行者たち」(トゥーマー)
古代ギリシアではポリスごとにばらばらの暦をもちいており、誤差も大きかった。遅くともBC6世紀にはメソポタミアの天文知識がはいってきていたが、暦の精緻化や統一といった実用的な方向には進まず、天球という透明な殻が入れ子になる宇宙モデルの構築の方に進んだ。
ここで問題になるのは惑星の逆行現象だが、同心球理論で最初の答えをあたえたのがエウドクソスである(同心球理論はいろいろな説明を読んできたが本書が一番わかりやすい)。同心球理論はどうパラメータをいじっても火星の逆行を説明できないそうで、周天円理論と離心円理論にとってかわられることになる。
エウドクソスの300年後、ニケア生まれのヒッパルコスが周天円理論と離心円理論を集大成した。彼はメソポタミアから生の観測データと数学モデルを手にいれ、太陽と月の大きさを計算した。彼はまた基本的な観測器具であるアストロラーブを発明し、天文計算を簡略化する三角表を作った。
さらに300年後、プトレマイオスが『アルマゲスト』によってギリシア天文学を集大成する。プトレマイオス自身は『アルマゲスト』が決定版とは考えておらず、後世の人々に修正されることを望んでいたというが、結果的に1500年にわたって崇められつづけ、ローマ教皇庁公認の宇宙モデルともなった。
「エトルリアとローマの天文学」(ポター)
ローマ人は他の学問同様、天文学でもギリシアを踏襲しただけだったが、イタリア半島の先住民族であるエトルリア人の迷信好きの影響からか、占星術になみなみならぬ関心を寄せるようになる。占星術師は「カルデア人」と呼ばれ、東方の密議宗教とともに流行し、ストア派にまでとりいれられるようになった。
東方宗教の一つであるキリスト教が勝利をおさめると占星術は逆に排撃されるようになったが、学問としてプトレマイオスの体系を学ぶことは推奨された。
「ギリシア後期およびビザンツの天文学」(ジョウンズ)
東地中海世界は1453年のコンスタンティノープル陥落までギリシア語が支配的だったが、古代末期からルネサンスにいたる1300年の間に知的中心はアレクサンドリアからコンスタンティノープルに移り、宗教は異教からキリスト教に交替した。
『プトレマイオス表』と『簡易表』は古代末期に急速に普及したが、バビロニアの計算方式に完全にとってかわることはなかった。プトレマイオスは難しすぎたので簡単に使えるバビロニア方式との併用がつづいたのである。
『アルマゲスト』を改良しようという動きはなかったが、注釈書や手引書は多数書かれた。中でも高い水準にあるのは新プラトン派のプロクロスによるものだという。
ビザンチン帝国時代になるとヘラクレイオス帝が天文学の空白地帯だったコンスタンティノープルにアレクサンドリアのステファノスを招いた。ヘラクレイオス帝はコンスタンティノープルの緯度で使える『簡易表』の著者に擬せられているが、実際の著者はステファノスだったらしい。
この後、偶像崇拝破壊運動などがあってコンスタンティノープルの天文学は途絶えるが、9世紀になってギリシア語の学問が復活する。パピルスの巻物で保存されて来た写本は長持する羊皮紙の冊子に書き写された。イスラム圏がギリシア語文献を貪欲に移入したのもこの頃である。
11世紀になるとイスラム圏で独自に発展した天文学を輸入しようという動きがはじまり、『プトレマイオス表』とは異なる数値(ダマスクスでイスラム天文学者が観測した数値)が天文計算にあらわれるようになる。ビザンツ天文学はプトレマイオスの体系を発展させずにそのまま伝えたことに意義があるとされてきたが、後期には独自の展開が見られたことは特筆に値する。しかし第四回十字軍の略奪と1453年のコンスタンティノープル陥落でギリシア人学者とギリシア語写本は西方に流出し、ビザンチン天文学は終幕をむかえる。
「紀元後千年間のヨーロッパの天文学:考古学的記録」(フィールド)
本書は文献記録中心だが、本章は考古学的遺物として残っていたり絵画の中に描かれている天体観測器具をとりあげている。天球儀や日時計などだが、特筆すべきはオーパーツとして有名な「アンティキテラの機械」である。
「アンティキテラの機械」とは1901年にアンティキテラ島沖の沈没船の中から引きあげられた青銅製の歯車装置である。あまりにも複雑かつ精巧にできていたので古代の遺物とはなかなか認められなかったが、1950年代になってX線写真で歯車と銘文が確認されて研究が本格化し、現在では天文計算をおこなうための機械式計算機だろうと推測されている。
「インドの天文学」(ピングリー)
暦を改良する試みはヴェーダ時代からあったが、インドで天文学が本格的に研究されはじめるのはギリシアの植民都市経由でメソポタミア天文学と占星術が移入されてからである。占星術はインドに定着し、天文計算の必要からインド独自のサンスクリット天文学が発展した。
さまざまな学派が興ったが、5世紀にアールヤバタという大天文学者があらわれ、アールヤ学派とアールダラートリカ学派という二つの学派を創始した。アールヤ学派は南インドで栄えたが、アールダラートリカ学派はサーサーン朝ペルシアに伝わり初期イスラム天文学に多大な影響をあたえたという。
19世紀末までは占星術師や暦製作者は伝統的なインド天文学の天文表を使いつづけたが、20世紀にはいると西洋から移入された近代天文学に変わっていった。
「イスラーム世界の天文学」(キング)
近年、ヨーロッパ中心主義への反省からイスラム科学と、イスラム科学がルネサンスにあたえた影響が見直されているが、天文学史の世界でもイスラム天文学に注目が集まっている。本章はわずか40ページの小編ながらイスラム天文学の濫觴から独自の発展、ヨーロッパに対する影響までコンパクトにまとめている。
アラブ民族は砂漠の民なのでもともと天文に対する関心が深く、月の満ち欠けなど天文知識をもっており、『コーラン』にも太陽や月、星が言及されている。断食月のはじまりと終りも月の観測にもとづいている。イスラム帝国が成立すると、帝国の各地に残っていたヘレニズム天文学の遺産をとりこみ、しだいに独自の天文学が発展していった。
最初にアラビア語の天文学書が作られたのはインドとアフガニスタンで、インド天文学にもとづくものと『アルマゲスト』にもとづくものがあった。
「中世ヨーロッパの天文学」(ペーゼルセン)
キリスト教世界では占星術は迷信の烙印を押され、古代の伝統は途絶えてしまった。天文学は大学の前身となった司教座聖堂学校で自由七科の一部として教えられるにとどまったが、スペインからアラビア語に翻訳されたギリシア天文学の文献が輸入されるようになった。11世紀にはイスラム圏からアストロラーブという天球儀を平面投影した多機能観測器具がもちこまれた。
各地で大学が設立されアリストテレスの学問が研究されるようになると地球中心の天球理論が広まったが、プトレマイオスの複雑な体系と両立しないことがわかり二つの学派が生まれた。
13世紀には占星術が復活し、占星術師(mathematician)が職業として確立した。占星術師は宮廷や都市に雇われ、星占いだけでなく土地の測量や度量器の管理者の役割もつとめた。
「ルネサンスの天文学」(スワドロー)
コペルニクス、ティコ・ブラーエ、ケプラーにいたるおなじみの展開をあつかった章だが、コペルニクスに先立つレギオモンタヌスを特筆大書することで新味を出している。レギオモンタヌスについては『コペルニクスの仕掛人』が詳しかったが、本書の方がずっと大きくとりあげている。
コペルニクスについては「コメンタリオルス」の論点はイスラム天文学者がすでにとりあげており、コペルニクスが「全く先行者たちを知らなかったとは信じ難い」としている。
コペルニクスとケプラーの天体運行理論は多くの図を使ってわかりやすく説明している。翻訳は読みやすいが、既訳のある文献の題名の訳し方が違うのは不親切である。
「中世後期およびルネサンスの天文器具」(ターナー)
この章は観測器具の歴史をあつかう。アルミッラ天球儀、アストロラーブ、クロス・スタッフ、四分儀などだが、大航海時代がはじまると海洋上で位置を知るために不可欠な道具となり、改良され大量に生産されるようになった。