『古代メソアメリカ文明』 青山和夫 (講談社選書メチエ)
『マヤ文明の興亡』の訳者解説がよかったので、同じ青山和夫氏による本書を読んでみた。表題の「古代メソアメリカ文明」とはコロンブス到達以前に
著者はまず旧大陸中心の「四大文明観」を批判し、メソアメリカと南米中央アンデスにもエジプトやメソポタミアに匹敵した文明が誕生していたとして「六大文明観」を提唱する。アメリカ大陸の文明は金属器を生みださなかったが、高度に発達した石期と土器だけで農業を基盤とした都市を築き、エジプトに匹敵するようなピラミッドを建造した。2世紀から隆盛したテオティワカンはローマをもしのぐ人口を擁し、碁盤の目状の整然とした計画都市を作りあげた。中米・南米ともに大河はないが、乾燥地でも育つトウモロコシやジャガイモ、サツマイモ、カボチャなどが貧弱な野生種から品種改良され、現在では世界中に広まって重要な食料となっている。「六大文明観」に異論のある人はいないだろう。
本書はメソアメリカの文明を発祥順にオルメカ、マヤ、サポテカ、テオティワカン、トルテカ、アステカとたどっていく。
メソアメリカでは旧大陸やインカのような大帝国は誕生せず、各地域の文明はゆるいネットワークで結ばれていたが、そこで重要な役割を果たしたのは翡翠や鳥の羽、工芸品といった威信財だった。密林などに阻まれて大量の物資を輸送するのは困難だったが、支配層は持ち運びのできる希少な威信財で自らの権力と権威を正当化したわけである。
まずオルメカである。オルメカはメキシコ湾の南岸に自生したメソアメリカ最古の文明であり、黒人を思わせる巨石人頭像から以前はオルメカ=アフリカ起源説が唱えられたこともあったが、巨石人頭像のような風貌は現地の先住民に見られ、現在ではオルメカの美術様式と考えられているそうである。
従来はメソアメリカの他の文明を生みだした「母なる文明」と考えられていたが、現在ではオルメカでモニュメントが作られる以前からメソアメリカのさまざまな地域の間で遠距離交易があって刺激をあたえあい、その中で最も早く文明を形づくったのがオルメカだとする「姉なる文明」説が有力になっているという。
著者は「姉妹文明」説を踏まえながらも、オルメカには「母なる文明」という面があったのではないかとしている。オルメカ衰退後にメソアメリカ各地で文字と長期暦が同時多発的に発達しており、オルメカに起源があった可能性があるのである。特に文字については2006年にサン・ロレンソ近くのカスハル遺跡でメソアメリカ最古の文字が発見されている。
文字と暦の起源は置くとしても、オルメカが他地域に先行して政治経済組織を発達させたことは間違いなく、他地域でもオルメカ様式をとりいれた工芸品が作られていた。オルメカの影響は絶大だったのだ。
次はマヤであるが、『マヤ文明の興亡』の訳者解説に加筆したようなよく似た文章である(ところどころ同じセンテンスがある)。刊行は本書の方が一年早いから、本書のマヤの章を圧縮したのが『マヤ文明の興亡』の訳者解説なのかもしれない。
コウの『古代マヤ文明』にも書記や絵師、彫刻師の社会的地位が高いことは書かれていたが、著者はアグアテカ遺跡で石器の摩耗痕の調査をおこない、貴族が工芸品を作っていた事実を突きとめている。
研究の成果としては、第一に、発掘されたすべての支配層住居跡から、美術品および実用品の半専業生産の証拠が見つかり、王家の人びとおよび高い地位の宮廷人をふくむアグアテカ支配層のあいだで、手工業生産が広くおこなわれていたことが明らかになった。男性の支配層書記は、石碑の彫刻や、貝・骨製装飾品や王権の宝器のような美術品の製作をおこなった。支配層の女性も、調理だけでなく、織物や他の手工業生産に半専業で従事した。熟練した支配層工人が生産した、石彫、多彩色土器、貝・骨製品、織物などの美術品は価値が高く、製作活動自体が超自然的な意味を包含したと考えられる。こうした洗練された美術品の製作は、知識教養階層の王族・貴族と被支配層との地位の差異を拡大し、宮廷における権力争いでも重要な役割を果たした政治的道具であったといえよう。
マヤでは貴族が職人と神官を兼ねていたのである。また焼き畑農業に依存していたというのも正しくはなく、焼き畑と集約型農業を併用していたそうである。
マヤよりすこし遅れて紀元前500年頃、メキシコ盆地の南に位置するオアハカ盆地の中央にモンテ・アルバンという都市が築かれる。モンテ・アルバンはオアハカ盆地を統一し外部に勢力を広げて紀元後700年頃まで繁栄をつづけることになる。これがサポテカ文明で、「踊る人々」と呼ばれる人身御供にされる戦争捕虜を描いたレリーフやマヤに次ぐ複雑な文字体系を作りあげたが、日本人研究者がいないので日本での知名度は低いということである。
サポテカ文明がオアハカ盆地の外に進出しはじめた頃、メキシコ盆地の中央でテオティワカンが出現する。テオティワカンの人口は最盛期の紀元後250~500年には20万に近く、ローマをもしのぐ規模だった。モンテ・アルバンとの関係はよくわかっていないが、軍事的に対立していたことはなく友好的な関係だったらしい。
テオティワカンは黒曜石交易を独占した一大帝国とされていたが、その後黒曜石の大半は域内で消費され、メソアメリカ最大の商業中心地ではあっても、直接統治していた領土はメキシコ盆地に限られていたことがわかっている。
しかしテオティワカンの権威は絶大で、マヤの王の中にはテオティワカンの衣装をつけた像を作ったりしてテオティワカンとの関係を誇示する者が多かった。テオティワカン人が征服したという説もあったが、被葬者の調査ではマヤ出身であることがわかった。権威づけのためにテオティワカン風の衣装を利用していただけだけのようだ。
紀元後800年頃になるとテオティワカンとサポテカが相次いで衰退し、メソアメリカは群雄割拠の戦国時代の様相を呈するようになる。その中で頭角をあらわしたのがメキシコ盆地北部にトルテカ人が築いたトゥーラである。
トゥーラはトルテカ帝国としてマヤまで支配下においていたという説があったが、実際は国際商業都市にすぎなかった。トゥーラを実像以上に持ちあげたのはアステカ人で、トルテカ人との系譜を捏造しトルテカ人の文化を誇張することで自らを権威づけようとした。
さて最後のアステカだが、貨幣として使われていたカカオ豆の贋物が出回っていたというのには驚いた。カカオ豆の外皮の中に蠟や他の豆の粉を挽いた練り粉や泥を詰めこんであるそうだが、中国人もびっくりである。
終章ではスペインの征服は従来考えられていたほど完全なものではなく、常に反乱が起こってスペインの統治の及ばない地域が存在しつづけていたこと、先住民は強制された文化要素を取捨選択したり自己流に解釈したりして新たな文化を創造しつづけていたことを指摘している。先コロンブス期の文明は「現代から隔絶したものではない」というのだ。
先住民のしたたかさを示すエピソードを最後に紹介しよう。アステカがコルテス率いるわずか160人のスペイン遠征隊にやすやすと敗れたのはアステカ人が白人を見てケツァルコアトルの再来と勘違いしたからだという説が広まっているが、これは先住民支配層の捏造だというのだ。
モクテスマ二世王が、10世紀にトゥーラを追放された、トピルツィン・ケツァルコアトル王の一行が「一の葦」の年にあたる1519年に帰還するという「神話」を信じて、コルテスを神格化したケツァルコアトル(羽毛の生えた蛇神)の再臨と勘違いしたともいう。これに対して、フロリダ大学のS・ジレスピーは、民族史料を詳細に検討して、アステカ人の王族・貴族が、屈辱的な敗北を正当化するために、「神話」を捏造したことを明らかにしている。
マヤの都市間の権謀術数を知っている人ならさもありなんと思うだろう。メソアメリカの人々は一筋縄ではいかないのである。