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『訓民正音』 趙義成 (平凡社)

訓民正音

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 世界にはさまざまな文字があるが、実際に使われた文字で誕生の経緯が文書として残っているのはおそらくハングルとパスパ文字くらいだろう。則天文字にも「改元載初赦文」が伝わっているが、いくつか造字しただけで文字体系を作ったわけではない。

 ハングルは1443年に李朝第四代世宗が作らせた文字である。世宗は新しい文字を広めるために鄭麟趾ら八名の学者にハンドブックを作らせ、1446年に『訓民正音』として公布した。

 『訓民正音』は世宗がみずから書いた序と本文にあたる「例義」からなる。「例義」は28の字母と音韻の関係を記しただけの簡潔なもので、JISの規格本文のようなものである。

 規格本文だけではどうやって運用したらいいかわからないのでJISの規格票には解説がつくが、『訓民正音』にも解説があって「解例」という。「解例」を付した形で刊行された版が『訓民正音解例本』である。

 本書はB5版282ページのコンパクトな本で、『訓民正音解例本』とハングル制定に反対した崔万理ら廷臣による「諺文対上疏文」、ハングル制定と平行する形で進められた漢字のあるべき読みを定めた『東国正韻』の序が収められ、巻末にユネスコの「世界の記憶」に登録された原刊本の書影が写真版で付されている。

 各文書は和訳の後に上段に白文、下段に読み下しが印刷され、その後に著者がつけた語釈がつづく。もちろんすべて縦書である。

 世宗の「御製序」は短いので読み下しを全文引用しよう。

 国の語音、中国に異なり、文字と相い流通せず、故に愚民、言わんと欲する所有れども、いに其の情を伸ぶるを得ざる者多し。予、此が為に憫然たりて、新たに二十八字をつくり、人々をして易く習い、日用に便ならしめんと欲するのみ。

 「愚民」という言葉がいきなり出てくるが、王様だからいいのだろう。語釈には「漢字・漢文の素養のない民」とある。

 「例義」の字母の定義については k ないし g をあらわす「ㄱ」の条を和訳で引く。

 ㄱ、牙音。「君」の字の初めに発する音と同じである。左右に並べて書けば「虯」字の初めに発する音と同じである。

 牙音とは中国音韻学の子音の分類で、現代の音声学でいう軟口蓋音にあたる。左右に並べて書くとは「ㄱ」を二つならべた合成字母「ㄲ」のことである。

 以上で終りだ。

 解説にあたる「解例」は字母の形のいわれを解説した「制字解」、他の字母と組みあわせた場合の発音を漢字の読みで示した「初聲解」「中聲解」「終聲解」、字母を結合して一文字を構成する規則を示した「合字解」、そして字母の用例を朝鮮語固有語彙で示した「用字解」という構成である。

 わたしは朝鮮語がわからないので発音の部分はパスして「制字解」と「合字解」だけを読んだ。

 「制字解」は朱子学宇宙論である陰陽五行説を解説した後、字母の形をどのように決めたかを次のように述べている。

 訓民正音には二十八の字母があり、それぞれ何らかの形をかたどって作られた。初声は全部で十七字母である。牙音字ㄱは、舌根が喉をふさぐ形をかたどっている。舌音字ㄴは、下が上歯茎に付く形をかたどっている。唇音字ㅁは、口の形をかたどっている。

 アルファベットで示せばㄱは k、ㄴは n、ㅁは mである。音声学でおなじみの発音する時の口の断面図を思い浮かべればいい。

 ここまでは科学的だが、この後陰陽五行説では牙音は「木」にあたるとしてㄱは「木」のエネルギーが物質化すること、ㅋは物質化した木が生い茂ること、ㄲは木が老いることというに形而上学の高みに駈けのぼっていく。

 「合字解」は文字構成の原則を述べるが、あくまで原則だけである。

 初声・中声・終声の三要素は、組み合せて一文字を作る。初声字は、中声字の上に来るものもあれば、中声字の左に来るものもある。「君」の字のㄱはㅜの上に来るし、「業」の字のㅇはㅓの左に来るといった具合である。

 全ての組合せを一覧表にしてもらいたいところだが、そこまではやっていない。

 朱子学的な思考に踏みこまなければほとんどJISの規格票であり、読んで面白いものではない。

 興味深かったのは「解例」の末尾に置かれた鄭麟趾の後序とハングル制定に反対した崔万理ら廷臣による「諺文対上疏文」である。特に後者は面白い。挨拶につづく最初の段落を和訳で引こう。

 わが朝鮮は初代国王からこれまで真心を尽くして大国たる中国に仕え、ひたすら中華の制度に従ってきました。今は中華と行動を共にする時であるのに、諺文をお作りになったことに対して、驚きをもってこれを見聞きする者があります。

 廷臣の反論の概略はハングルの概説書で知っていたが、実物を読むと殿御乱心と廷臣があわてふためいている様子が目に見えるようだ。

 簡にして要をえた本であるが、解説には大胆なことが書いてある。ハングルは世宗の命令で集賢殿の学者が共同研究して製作したというのが定説だと思うが、著者は『世宗実録』と鄭麟趾の後序を根拠に世宗がみずから字母を創制したとし、「集賢殿の学士たちが文字創作に関与した可能性は低そうである」と述べているのだ。

 世宗が中国音韻学に通じていたのは事実のようである。世宗はハングル創制の前から集賢殿の学者を中国に派遣して漢字の正しい読み方を調査させ、後に『東国正韻』と『洪武正韻訳訓』をまとめさせているが、音韻を決定するにあたってはいちいち宸断をあおいだとある。世宗は細かいところまで口を出していたのである。そういう王様であるからハングルに反対する上疏文に対してはこう反問している。

 おまえは韻書を知っているのか。四声や七音、それに字母はいくつあるのか。もし私がその韻書を正さないのならば、いったい誰がこれを正すのか。

 世宗は自分の学識に絶対的な自信を持っていたようである。だとしたら映画通を自認する金正日が映画監督をやったように、世宗がみずから字母をデザインした可能性もゼロではないだろう。

 とはいってもなにぶん臣下の残した記録である。金日成の縮地法の類かもしれないが。

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