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『ハングルの歴史』 朴永濬他 (白水社)

ハングルの歴史

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 最初に手にとった時は論文集かなと思ったが、読んでみると学術的というよりは雑学寄りの本だった。

 邦題は『ハングルの歴史』となっているが原題は『韓国語の謎』だそうで、韓国語表記の歴史をめぐる14本のエッセイがおさめられている(原著では16本)。それほど深く掘りさげているわけではないが情報量はけっこう多く、今月とりあげた本を読んでいて頭に浮かんだ疑問の多くが解けた。韓国語のできない人間にとってはありがたい本であるが、事実の隠蔽や歪曲もたくさんある。韓国人はハングルにプライドを持っているが、そのプライドはガラスのように脆いらしい。

 最初の4本はハングル誕生以前の話で吏読、口訣、郷札をとりあげている。万葉仮名にあたる郷札は早く廃れたが、変体漢文の一種である吏読は下級官吏の表記法として公認され、李朝末期まで公文書に使われていた。

 訓読文にあたる口訣は漢文の経典を読むために密かに使われつづけ、ハングルが誕生後も普通に使われたよし。

 李朝時代は両班は漢文、下級官吏にしかなれない中人は吏読と口訣、庶民(常民)はハングルと社会階層によって異なる文字生活を送っていたわけである。

 「5 訓民正音はすべての民衆に用いられたか」はハングル誕生の経緯をとりあげている。世宗はハングルを作らせた王様として有名だが、ハングル公布の14年前に明の法典を吏読文に翻訳させ『大明立直解』として刊行し、吏読さえ読めない「愚民」のために『三綱行実図』という絵本を作らせた。「愚民」を教化したいという願いが世宗をハングル創製に向かわせたようである。

 『訓民正音』御製序にあるようにハングルは「愚民」のために作られたが、世宗は中下級官吏にも広めようと官吏採用試験でハングル併用を命じている。もっとも漢文の権威が揺らぐことはなかったが。

 「6 訓民正音は他の文字を真似たものか」ではハングルの起源をめぐる諸説が紹介されているが「模倣説が囁かれるわけ」という副題がついていることから察せられるように、韓国人はハングルの起源を云々することをハングルに対する侮辱と受けとるらしい。

 申叔舟が遼東に派遣されたのは文字ではなく漢字音の調査のためだったと長々と考証したり、女真文字や日本の神代文字(!)のようなトンデモに近い起源説は威勢よく論駁するが、本命といえるパスパ文字については「単なる憶測として片付けることはできない」とだけ書いてすぐさま話題を転じている。いかにも触れたくないという感じだ。

 「7 崔萬里はなぜ訓民正音創製に反対したのか」は面白かった。

 崔萬里はハングルに反対する上疏文を呈したことで悪役に仕立あげられているが、儒学者にとっては漢字は礼そのものであって単なる便利な道具などではなかった。そうであれば便利すぎるハングルによって礼が廃れることを心配するのは当然ではないだろうか。むしろおかしいのは儒学者でありながらハングル普及を推進しようとする鄭麟趾や申叔舟の方ではないか。

 この反問に答える鍵は申叔舟の遼東派遣にある。「混乱した漢字音を整理するための文字を作るという作業は、儒学者の名文に何ら反するものではなかった」というわけだ。

 「8 朝鮮王朝時代の人々は「ㄱ」をどう呼んだか」は創製当時、それぞれの字母の名称をさぐる考証だが、わたしは韓国語ができないのでむしろ『訓蒙字會』の紹介の方を興味深く読んだ。

 『訓蒙字會』はハングル公布の70年後に崔世珍によって編纂された漢字の学習書だが、すべての単語にハングルで読みがつけられている上に序文(『ハングルの成立と歴史』所載)にはハングル字母の解説が含まれている。

 著者は崔世珍が中人身分だったことが『訓蒙字會』を編纂する動機になったと考えている。

 中人の身分でありながら当代最高の学者であった崔世珍の二つの姿は「諺文」による漢字語彙集の発行と絶妙な対応を示している。当時の士大夫はだれも見向きもしなかった低俗な文字・諺文を用いて、知識社会の根本をなす漢字の学習書を編纂したという歴史的事実が、崔世珍という人物を物語っているかのようである。

 「9 ハングルはいつから大衆に愛用されるようになったのか」は初のハングル専用新聞『独立新聞』がテーマだが、露払役として朝鮮最初の近代新聞である『漢城旬報』とその後継紙である『漢城週報』が言及される。

 『嫌韓流』で広く知られるようになったように『漢城旬報』には福沢諭吉が深く関与しており発行を助けるために井上角五郎ら門下生と印刷工を派遣している。福沢はハングルによる新聞発行を望んだが、保守派の反発で漢文で発行をはじめた。

 しかし『漢城旬報』は甲申政変のために1年2ヶ月で廃刊を余儀なくされ、1886年1月から名称を『漢城週報』と改め週刊ベースで発行された。

 注目すべきは漢文、漢字ハングル交じり文(国漢文)、ハングル専用文の三通りの表記が採用されたことだ。しかも『独立新聞』の十年前も前である。

 ところが本章ではこうした事実はすべてなかったことにされている。朴泳孝が独力で発行したかのような書きぶりだし、『漢城週報』がハングルを用いていたことも最後に「このときは国漢混用文であった」と軽くふれるだけだ。あからさまなウソこそ書いていないが、書かないことで結局ウソをついている。

 「10 ハングル正書法統一案はなぜ作られたか」は長らく「諺文」という蔑称で呼ばれていたハングルが1894年の甲午改革で「国文」として公認されてから1933年に朝鮮語学会による『ハングル正書法統一案』がなるまでの40年間の正書法をめぐる議論を紹介している。

 わたしは韓国語がわからないのでこういう理解でいいのか自信がないが、世宗の公布した『訓民正音』では発音通りに表記するという表音主義の原則が示されていたのに対し文法構造を反映した表記法の方がいいという考え方が台頭し、どこまで文法構造を反映させるかでさまざまな表記法が乱立していたということのようである。

 この混乱をおさめるために最初に口火を切ったのは日本で西洋医学を学んだ池錫永だった。池錫永は『訓民正音』の表音主義にもどすという方向の『新訂国文』を1905年に発表したが反論が殺到した。大韓帝国政府は論議の高まりを無視できなくなり国文研究所を設置した。世宗の正音庁以来はじめて設けられたハングル研究のための国家機関である。

 国文研究所は委員会をつくり1909年に表音主義にもとづく「国文研究所議定案」を答申するが翌年の日韓合邦のために棚上げされ、1912年になって朝鮮総督府により「普通学校用諺文綴字法」として公布された。

 この統一案には異論が多く、特に周時經の率いる朝鮮語学会(関連雑誌の名前から「ハングル」派と呼ばれる)が表意主義の立場から徹底的な批判をくわえた。総督府1920年に表意主義を一部とりいれ、1930年には「ハングル」派の主張をほぼそのままとりいれた改訂をおこなった。表音主義が日本語の新仮名遣い、表意主義が歴史的仮名遣いにあたるとするなら朝鮮語では日本語と逆の方向に論議が進んだことになる。

 ところが正書法をめぐる戦いはそれでは終わらなかった。「13 熾烈な綴字法論争の真相」は1930年以降も継続された崔鉉培を中心とする「ハングル」派と朴勝彬を中心とする「正音派」の論争を紹介している。

 表音主義の立場の朴勝彬は1930年に朝鮮総督府が「ハングル」派の表意主義を丸のみしたのに反発し、翌年朝鮮語学研究会を結成し機関誌『正音』で表音主義の論陣を張った。朴勝彬派は機関誌の名前から「正音派」と呼ばれた。

 両派の論争は注目を集め、1932年11月東亜日報の主催で表記法統一案についての汎国民公聴会が開かれた。

 本章では崔鉉培、朴勝彬の両巨頭が出席した公聴会の論戦が描かれているが、韓国語がわからないので議論の細部にはついていけないが、「文字は決して音声だけを表すものではありません」という崔鉉培の考え方は歴史的仮名遣いの立場に非常に近い。

 一方朴勝彬の主張はこうだ。

 朴勝彬は訓民正音の伝統を継承しなければならないと信じていた。開化期までの五百年間、絶え間なく実践されてきた表音主義の伝統を継承しようと、訓民正音の名にちなんで「正音」としたのである。崔鉉培の言うように文字が観念の塊であるとすれば、音声は現実のことばの記録である。文字と音声に代表される彼らの表記法論争はこうして始まったのだった。

 本書にはこの程度しか書かれていないが、三ツ井崇『朝鮮植民地支配と言語』によれば朴は官費留学生として1904年から7年にかけて日本の中央大学に留学したが、その頃日本では漢字廃止論の第三次ブームが起こっており、その影響で言語ナショナリズムと、それと表裏する表音主義に目覚めた可能性があるという。

 公聴会の翌年朝鮮語学会(「ハングル」派)は正書法統一案を発表した。1930年の総督府の「諺文綴字法」は朝鮮語学会の主張を大幅にとりいれたとはいっても、一部表音主義の主張もとりいれていたので、朝鮮語学会としては表意主義を徹底した独自の正書法を作る必要があったのだ。

 しかし朝鮮語学会の正書法はすぐには世の受けいれるところとはならなかった。朝鮮語学会は教育界では圧倒的な影響力をもっていたし新聞界からも支持されたが、社会全体ではまだ多数派ではなかったのだ。朝鮮語学会の正書法が最終的な勝利をおさめるのは独立後のことになる。

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