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『朝鮮植民地支配と言語』 三ツ井崇 (明石書店)

朝鮮植民地支配と言語

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 ついこの間まで日本は日韓合邦時代に朝鮮語を禁止したとかハングルを抹殺しようとしたといった日本悪者論が横行していたが、『嫌韓流』のブームで日本が欧米の植民地ではありえない普通教育を実施し、しかも朝鮮語を必修科目としてハングルの普及に力をいれていたことが広く知られるようになった。またハングルの正書法が確立したのも日本統治時代のことで、それには朝鮮総督府が大きく係わっていた。もはやかつてのようなハングル抹殺論は通用しないところにきている。

 韓国の歴史学界でも日本が朝鮮の自発的近代化をつぶしたとする植民地収奪論はかつての勢いを失い、日本支配の功罪を事実に即して冷静に見ていこうとする植民地近代化論が台頭してきている。

 2006年に刊行された『解放前後史の再認識』(『大韓民国の物語』のもとになった論集)の巻末の座談会では次のような見直しが提起されている。

 朝鮮語学会は植民地の期間内にただ一度も総督府権力と対立したことはありませんでした。対立したというよりはむしろハングル運動において朝鮮語学会の方針を貫徹させるために、総督府と常に緊密に協調するしかなかったのです。朝鮮語学会と対立する他の民間団体を牽制するためにも総督府権力が必要であり、さらにハングルの全面的な普及のためには、学校や新聞のような機構を掌握しなければならず、そのためにも現実の政治権力に背を向けては何もできなかったのです。

 朝鮮語学会は発音よりも意味的区分(正確には形態素的区分)を重視したハングル正書法(表意主義もしくは形態主義と呼ばれる)を提唱した周時經の弟子たちが立ち上げた団体で関連雑誌の名称から「ハングル」派と呼ばれていた。独立後にハングル学会と改称してハングル専用政策に多大な影響をおよぼしたが、そこまで声望を集めるにいたったのは朝鮮語学会事件で幹部が下獄したことが大きい。

 近年の植民地近代化論では日帝朝鮮語抹殺政策と戦ったはずの英雄が対日協力者に逆転してしまったわけだが、従来の植民地収奪論を「民族主義」と位置づける著者は日本のおかげでハングル正書法が確立したとする見方を「施恵論」と呼び、「施恵論」の否定を本書のテーマの一つとしている。

 「施恵論」の否定とはいっても著者の姿勢はあくまで実証的で手堅く、多くの事実を掘り起こしている。これまで「諺文綴字法」については純言語学的な研究か、日帝はできそこないの正書法をわざとつくってハングルの普及を妨げたとする言いがかりのような研究しかなかったというが、社会的・歴史的せめぎあいの中で正書法確立の過程を緻密に跡づけた本書は貴重である。

 ハングル正書法の確立に総督府がどのように関与したか、本書にしたがっておおよその流れを見ていこう。

 1911年に朝鮮教育令が公布され総督府学務局は普通学校(小学校に相当)の教科書編纂のための標準となる綴字法を緊急に必要とした。学務局は日本人委員4名、朝鮮人委員4名からなる朝鮮語調査会議を設置した。調査会議は1911年7月から11月までの4ヶ月間にわずか5回の審議で『朝鮮語調査報告書』をまとめたが、翌年制定された「普通学校諺文綴字法」に反映させた。

 1912年の「普通学校諺文綴字法」は摘要範囲を普通学校に限定しており朝鮮社会全体の綴字法をどうするかという視点は最初からなかったが、肝心の朝鮮人教員からはまったく評価されず教育現場には浸透しなかった。

 1912年版が朝鮮人教員の反発を受けた原因として著者は8名の委員に現職の教員が一人も含まれていなかった点を指摘するが、より根本的には朝鮮教育界は「ハングル」派の影響が強く、表音主義と表意主義を折衷した「普通学校諺文綴字法」は最初から受けいれられるはずがなかったことがあげられるだろう。

 学務局は1922年の朝鮮教育令の改正にそなえて1921年に「普通学校諺文綴字法」を改訂したが、1912年版に対する批判を考慮したのか11名の委員を日本人3名、朝鮮人8名とし、過半を教育経験者から選んでいる(2名は「ハングル」派)。

 ところが1921年の「普通学校諺文綴字法大要」は1912年版とほとんど変わるところがなかった。調査委員会の開会にあたって学務局長の柴田善三郎は「本調査によってすぐに諺文綴字法の統一の如き重大問題を根本的に解決することは到底不可能」と演説したが、案の定議論は紛糾してまとまらず、現状維持を落としどころにするしかなかったのである。

 一方ハングル正書法の統一を求める社会的要請は日々高まっていった。朝鮮人社会は近代化によって漢文中心から漢字ハングル交じり文やハングル専用文中心に急速に移行しつつあり、正書法の統一は教育現場の問題だけではなくなっていた。総督府は日本人官吏に朝鮮語の習得を推奨していたが、その規範をどうするかという問題もあった。

 学務局はこうした状況に対応すべく1928年から綴字法改正にとりかかり1930年に「諺文綴字法」を制定した。名称から「普通学校用」がとれたのは教育現場以外の場面での適用をも想定したからである。

 今回はまず現職の教員4名と学務局員3名(1名は日本人)、そして編輯課長と京城帝大教授の小倉進平からなる原案起草小委員会で原案を作成し、それを14名の本委員会で審議するという二段階方式をとった。本委員会の9名の朝鮮人委員のうち6名は「ハングル」派である。

 政策目標の実現のために委員構成を操作するのは官僚の常套手段だが、これはあからさまな「ハングル」派贔屓である。「ハングル」派と敵対する朴勝彬らは偏った委員選定に対して抗議し、雑誌『正音』(後述)には学務局内の「ハングル」派シンパの「画策」とする憶測記事が載った。前二回とは異なる二段階方式で案を練ったことといい、学務局は反対を過去のしがらみを断ち切った綴字法を押し切ってでも制定しようという政策判断をおこなったと見られる。

 委員構成から予想されるとおり新綴字法は「ハングル」派の主張を大幅にとりいれたものになった。新綴字法にもとづく新しい教科書の印刷がはじまったが、ところがそこに横槍がはいった。新学期をひかえた2月になって改正案は突然総督の諮問機関である中枢院で討議されることになったのである。

 「ハングル」派に肩入れする東亞日報は「旧派の反対で一頓挫」という見出しを掲げたが、真相は中枢院参議の魚允迪が総督府の首脳部に働きかけて改正案をつぶしをはかったということのようである(魚允迪は後述の国文研究所の委員だった)。どういう調整がおこなわれたのかはわからないが、中枢院では若干の議論があっただけで了承され学務局の予定通り4月から新綴字法による教育がはじまった。

 新綴字法が「ハングル」派色のきわめて濃いものになったことに対して批判がおきた。反新綴字法の旗手となったのは現代化した表音主義を提唱する朴勝彬で、同志をつのって朝鮮語学研究会を立ちあげた。朴勝彬の賛同者は機関誌『正音』に拠ったので「正音」派と呼ばれている。1932年に「ハングル」派と「正音」派の間でおこなわれた公開討論会の模様は『ハングルの歴史』第13章に詳しい。

 「ハングル」派の方も新綴字法に満足しているわけではなかった。総督府の委員会には「ハングル」派に賛同しない委員もいて妥協した点もあったからだ。「ハングル」派は新綴字法を土台に表意主義を徹底した綴字法を作りあげ1933年に「朝鮮語綴字法統一案」として発表した。南北朝鮮の今日の正書法はこの「統一案」がもとになっている。

 こうして経過を見てくると日本人朝鮮語学者の力だけでハングル正書法を作ったという主張は成立たないことがわかる。1933年の「統一案」にいたる過程を実証的に明らかにした本書の意義はきわめて大きいといえる。

 とはいえ本書の記述に疑問点がないわけではない。

 著者は1912年版と1921版の綴字法に朝鮮人の批判が殺到したと強調し、そのような綴字法しか作れなかった総督府を執拗に批判しているが、1912年版は本当に総督府が作ったものなのだろうか。

 というのは『ハングルの歴史』第10章には大韓帝国学部(文部省に相当)がハングル正書法制定のために設置した国文研究所に関して次のような記述があるからである。

 学部学務局長の尹致旿を委員長に張憲植、李能和、權甫相、上村正己、周時經などが委員に任命された。以後、魚允迪、李鍾一、池錫永、李敏應らが抜擢され、一九〇七年九月の第一次会議を皮切りに一九〇九年一二月まで計二三回の会議が持たれ、一九〇九年一二月には「国文研究議定案」の名で最終報告書が学部大臣に提出された。……中略……

 日韓併合後、総督府はこの「国文研究議定案」をもとに「普通学校用諺文綴字法」という正書法を作成し、一九一二年四月に公布した。

 総督府は綴字法のために朝鮮語調査会議を設置したが、4ヶ月間に5回しか会議を開いていない。国文研究所の2年間で23回に較べるとあまりにもすくない。たった5回の会議で正書法をゼロから定めるのは無理であるが、大韓帝国時代につくられた「国文研究議定案」を土台にしたなら話は別である。しかも朝鮮語調査会議の4名の朝鮮人委員のうち2名は国文研究所で委員をつとめていた(1921年版の調査会議にも国文研究所の委員経験者が2名はいっている)。

 総督府朝鮮語調査会議の報告書を参考に「国文研究議定案」に多少の手直しをしたというのが実情に近いのではないか。本書には報告書が「必ずしも拘束力を持つとは限らなかった」とある。実際報告書の内容と1912年の綴字法の間には不一致が確認されており、少数意見を採用した部分もあるとしている。

 ところが本書には「国文研究議定案」はまったく登場しないのである。国文研究所についてはわずかにこう書かれているにすぎない。

 朝鮮語綴字法については、併合前にも学部に設置された国文研究所(一九〇七年)で討議されていたが、その解決を見ないまま研究所は解散してしまい(一九〇九年)、綴字法の不統一状態を克服できないままでいた。韓国併合後、総督府内務部学務局が教科書編纂という実務的課題のうえで、その問題を「引き継ぐ」形となった。

 『ハングルの歴史』が正しいなら総督府は問題だけでなく「国文研究議定案」も引き継いでいたはずだが、本書はその事実を故意に隠蔽した疑いがあるし1930年改訂における学務局の政策判断も不当に軽く見すぎているのではないか。魚允迪の横槍に稲垣課長が「不快」を表明したことを疑うにいたっては悪意を感じる。著者は「施恵論」を全否定したいがために筆を曲げたのだろうか。これでは学術書ではなく政治パンフレットだ。

 日韓合邦がなかったとしても大韓帝国学部は1912年版と五十歩百歩の正書法しか提供できなかっただろうし、その後の展開も似たような道筋をたどっていたのではないか。

 いや、もっとひどいことになっていたかもしれない。総督府朝鮮人高官の横車を最終的には無視することができたが、大韓帝国がつづいていたら「ハングル」派の案を大胆にとりいれた綴字法で押し通すといったことは不可能だったのではないか。その意味では総督府がハングル正書法確立ではたした役割は著者が主張する以上に大きかったはずなのである。

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