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『顕示的消費の経済学』 メイソン (名古屋大学出版会)

顕示的消費の経済学

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 「顕示的消費」とはヴェブレンの『有閑階級の理論』で広く知られるようになった言葉で、ブランド品や贅沢品を社会的地位を誇示するために買うことをいう。要するに無駄遣いだが、今日の消費社会は無駄遣いで回っており、顕示的消費なしには成立たない。

 本書は顕示的消費がどのように考えられてきたかを資本主義の黎明期にさかのぼって追跡した本である。おなじみの名前が意外な形で登場してくるが、顕示的消費が最近まで経済学にとってできれば無視したい喉に刺さったトゲでありつづけたことがよくわかる。

 17世紀のダッドリー・ノース卿から現代のミクロ経済学まで400年の歴史をあつかっているが、画期をなすのはマンデヴィルとヴェブレンである。大まかにいえば顕示的消費の経済学はマンデヴィル以前、マンデヴィルからヴェブレンまで、ヴェブレン以後の三期にわかれる。

 経済についての自覚的な考察は重商主義にはじまる。重商主義の見地からは顕示的消費は道徳的に非難されるべきものであると同時に貨幣を投資や生産から流出させ国富を損なう厄介物だった。

 これに対して自由貿易を主張する重農主義者は大金持の奢侈的消費は小商人を潤し、貨幣の流通を促進すると控え目に擁護した。顕示的消費は虚栄心のあらわれと見なされていたから表立っては弁護しにくかったのである。

 良識に反して真向から顕示的消費の効用を説いたのはマンデヴィルである。マンデヴィルは経済的繁栄の絶頂をむかえたオランダに生まれ、医師となって英国に移住したが、「ブンブンうなる蜂の巣」という戯詩を書き、個人的な悪徳の追求が社会全体の利益となると主張した。私悪すなわち公益という断定は世の識者の顰蹙をかい、保守的な思想家はもとよりロックやヒュームのような革新的な思想家からも批判された。しかしマンデヴィルは怯むことなく『蜂の寓話』、『続蜂の寓話』で批判に答えた。

 マンデヴィルは経済思想史的には自由放任と分業の提唱で知られるが、顕示的消費の観点からは大貴族の衣装を貿易商がまね、さらに小商人が模倣し、下々の者が自分たちと同じ格好をしていると気づいた大貴族が新たなデザインの服装を注文するという流行の循環を描きだし、顕示的消費が王侯貴族や大金持ちだけでなく、社会全体に見られると指摘した点が重要である。

 マンデヴィルの顕示的消費論は狂い咲きのようなもので、彼以後は道徳的な虚栄心批判が盛りかえしてくる。

 アダム・スミスはマンデヴィルから自由放任論と分業論を引きつぐが、顕示的消費については「それをもたずしては信用のおける人としての作法に欠けさせてしまう」特定の商品は必需品だが、それ以外の奢侈は堕落と切り捨てた。

 スミスの自由放任論に対し、国家主導の技術的進歩の必要性を説いたことで知られるジョン・レーも顕示的消費を「虚栄の感情によって引き起こされる消費」と否定した点は同じだが、社会的ステータスを改善したいという知的な力によって虚栄心が洗練された絵画や家具に向けられた場合は公益になると限定的ながら効用を認めた。また外国産の奢侈品は自由市場ではすぐに供給過多になって価値がなくなるとし、地位表示財の本質が稀少性にあることを指摘した。

 1880年代になるとスミス以来の労働価値説に対して限界効用価値説が台頭してくるが、効用に他の人間がもっていない物をもつことから生まれる対人効果が含まれるかどうかが問題になった。限界効用説の初期の大成者であるアルフレッド・マーシャルは対人効果はとるにたりないと無視したが、ヘンリー・カニンガムは商品の供給量が増えれば「人びとの喜びそのものも、それらがありきたりなものにつれて減少していく」と批判した。

 ピグーカニンガム説をさらに発展させ、商品の顕示的価値は量に影響されるだけでなく、その商品の分配のされ方にも影響されるとした。ピグーはシルクハットを例に「もし、下層階級においてこうした被り物が着用されるなど、驚くべきことが起こったとするならば、私の効用曲線はきっと影響を受けるであろう」と書いている。

 いよいよヴェブレンの登場となるが、その背景には1890年代アメリカの「金ぴか時代」があった。

 マルクスは資本主義が発展すればするほど労働者は貧しくなるとしたが、実際には労働者の生活はよくなっていった。絶対的な窮乏化こそ起こらなかったが、経済的格差は広がった。ヴェブレンは1892年の「社会主義理論で見すごされていたいくつかの論点」で社会に対して異議申し立てをしているのは世間体を維持するための費用がかさみ、収入のかなりの部分を外見的な見栄えを保つために費やさなければならなくなった人々だと主張した。「自分自身と同じ階級に属していると思う人びとがなしうる消費なら何でもすることが不可欠になるばかりか、他の人々より少しでも多くの支出を行なうのが望ましいことになってくる」というわけだ。

 ヴェブレンは1899年の『有閑階級の理論』で地位志向的消費を本格的に論じた。最も貧しい階層も含めて、あらゆる階層の人が体面を保つための支出をおこなっており、少しでも上の階層に見られたいと背伸びをしている。顕示的消費は一部の大金持ちだけでなく、あらゆる階層でおこなわれているというのだ。

 同書は大きな反響を巻き起こしたが、上流階級の浪費を諷刺した本と見なされ、ヴェブレン自身が最も期待した経済学者からはほとんど無視されてしまった(経済学の範囲にはおさまりきらない本だし、なまじ面白すぎたのが問題だったのだろう)。

 とはいえヴェブレンの消費理論は徐々に影響を広げていった。1909年にシュムペーターは快楽の合計にもとづく従来の効用概念はあまりにも狭いから実用にならないと批判し、制度派経済学に参加したウェズリー・ミッチェルも効用に社会的影響をくわえるべきだとした。

 対人効果が効用に大きな影響をおよぼすことを否定する経済学者はいなかったということであるが、対人効果を織りこんで効用関数を定式化しなおそうという者もいなかった。当時のミクロ経済学はそこまで進んでいなかったということのようだ。

 第二次大戦後、アメリカは空前の繁栄を謳歌し、消費社会が大衆をも巻きこむこととなった。比較的所得の低い層の可処分所得が増え、顕示的消費に大々的に参入するようになった。こうした状況の変化に対応して需要曲線の再考を提唱したのはゲーム理論ミクロ経済学にとりいれたことで知られるオスカー・モルゲンシュテルンだった。モルゲンシュテルンは個々人の需要曲線を単純に合計したものが総需要だとする従来の説を問題にし、個人の効用関数が他者の消費に影響されないのはオックスフォードの中だけだと批判した。

 この後、1950年代と60年代のアメリカで提唱されたさまざまな消費理論が紹介され百花斉放の観がある。ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』と重なるが、記号論社会学に拡散せず、経済思想史の視点を貫いた点が本書の眼目だろう。

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