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『碁を打つ女』 シャン・サ著 平岡敦訳 (早川書房)

碁を打つ女

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心中にみるカタルシスと救済

時代は日中戦争の勃発する1937年。男は満州へ配属された20代の日本人士官。女は16歳の満州の娘。二人はお互いの素性も国籍も名前すらも明かすことなく、灼熱の広場で、基盤を挟んで、連日の対局に向かう。男の日常は、戦場の過酷な死線、捕虜の拷問、娼婦と交わされる欲情に満ちている。女の日常もまた、鬱屈とした家庭を背景に、性の芽生えを促す二人の男を巡る欲望と傷痕に翻弄されている。けれども、棋客となった時、二人は残虐と抑圧、露わな欲情にまみれた日常から隔離され、透徹した瞬間に住まう。その聖域で、二人は救済へ向けて、それぞれの運命の一手を打っていく。そして、その聖域と日常が交差する時、この物語は結末を迎える。

 『碁を打つ女』は、天安門事件の後、17歳で渡仏した著者が12年後に出版した、フランス語としては三作目の小説である。見事な構成と、序破急を思わせる卓越したテンポ、詩的でありながら無駄のない文章が、『碁を打つ女』の生命線である。特に、男の視点と女の視点を交互に描いていく形式は、碁を打つ行為そのものであり、物語の運行に緊迫感を漂わせる。碁の対局が展開されるのに並行して、戦局が展開され、二人の関係もまた終局へと向かう。碁と時代と男女が怒涛の三つ巴となって、見事に同期していくのである。

 二人の終局は、碁の哲学を通じて、女によって予言されている。「ひとつの石が占める位置の意味は、ほかの石の動きによって刻々と変化する。石と石との関係はますます入り込み、変転し、決して予測どおりになることはない。碁は打ち手の読みを嘲笑い、想像力に挑戦する。…碁とは虚言の競技なのだ。死というただひとつの真実のために、敵を幻惑させる。」

 日中戦争の只中という時代背景にあって、死はけっして夢想のものではなかった。「卑怯者になるか死ぬかと言われたら、迷わず死を選びなさい」と告げる「母とわたし(男)のあいだに許されているのは、死に関する言葉だけだった」。男にとって、死とは、天皇陛下と祖国のため、さらには母親の名誉のためのものなのだ。他方、懐妊させた男の裏切りへの憤怒によって、一度は自死を決意したものの、女は生を選ぶ。そして、碁こそが、女を生へと引き戻していたのだ。ところが、男にとっては、碁は破滅への誘いにほかならない。破滅とは、名誉を強制するものへの背信である。

 男は女のなかに過去の恋慕の対象である小妓を、さらには母親を見る。そして、女たちは、「同じ運命を、得ることのできない愛の深い悲しみを背負っている」「この世界に捧げられた供物」と見る。小妓も母親も、そして碁を打つ女も、彼にとっては侵(犯)すことのできない聖域であり、彼女たちへの止まれぬ欲望に駆られる時、こども時代に遭遇した震災の記憶が再来する。大地は震動し、彼の存在証明であるはずの軍人としての理想は瓦解する。そして、その瓦解を止めるものは、死にほかならないのだ。

 この作品は悲恋物語として喧伝された節がある。けれども、二人のあいだにあるのは、愛ではなく、まさに「虚言の競技」である。碁盤に向かう男の自己欺瞞は、自らの素性を明かさないという表面的隠蔽を越えて、存在そのものを揺るがすものである。禁欲の恋慕は、彼の理想への背徳を意味していることを、彼は知っている。自己欺瞞の瀬戸際で、彼は皇国のための死を選ぶが、運命がその選択を裏切っていくことを知らない。他方の女は、碁笥を後にした時、その行為が生との決別であって、供物としての死への一歩であることを知らない。結局のところ、二人がお互いに見いだしたものは、いずれは倒壊せざるをえない孤高の精神が必要としていた、愛という虚構の世界なのだ。そうした意味で、二人の道行きは、特定の時代だけが可能にした心中の変奏ですらある。「虚言の競技」である碁を止めた時、虚構の愛もまた、「死というただひとつの真実」へと向かう。

 けれども、果たして、虚構でない愛などというものが存在するのだろうか。相手の「読みを嘲笑い、想像力に挑戦する」ことのない恋などあるだろうか。「幻惑」のない愛などありえるだろうか。多くの「愛」が、生きていくために、「死というただひとつの真実」を避けて、茶飯の欺瞞へと変容を余儀なくされるのではなかろうか。戦時という時局がもたらした特殊な心中に読者がこころ動かされるのは、そこに愛という真実があるからではない。高潔な精神が、愛という虚構の筏(いかだ)を借りて、死をもって救済されることに、カタルシスを覚えるからなのではないだろうか。


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