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『わがままなやつら』エイミー・ベンダー著 管啓次郎訳(角川書店)

わがままなやつら

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「嘘の嫌いな奇想の作家」

エイミー・ベンダーの短編をどう説明したらいいのだろう。

「終点」はいつでも一緒にいてくれる相手を求めてペットショップで小人を買った男の話、「オフ」は黒髪の男、赤毛の男、ブロンドの男の三人にキスをするという目標を決めてパーティーに出むく女の話、「マザーファッカー」は行く先々で母親たちをファックするさすらいの男の話。

かなり突飛な内容であることは、これだけでも充分に伝わるだろう。

では奇抜なセッティングをして思いつくままさらさらと書いているのかというと、そういう感じは少しもしない。たしかに非凡さは感じられるものの、人と感性のちがうことをことさらアピールしようとする印象はない。そうせずには生きられない自己愛の持ち主にはとても思えないのだ。かといって教訓や風刺を含んだ寓話とはまったくちがう。

では奇想を軸にしながらエイミー・ベンダーはなにを語ろうとしているのだろうか。

小人とそれを買った男との関係を描いた「終点」では、男が小人をいたぶるシーンが多い。マスキングテープでぐるぐる巻きにして冷蔵庫に一時間閉じこめる。小人が失神すると、低温に設定したオーヴントースターに入れて回復させ、勃起しろ、と命じて、その小さく立ったペニスを笑う。

ワルの女の子たちがちょっとズレているデビーという女の子をいじめる「デビーランド」にも意地悪で残酷なにおいがするし、毛の色がちがう三人の男にキスすることだけを目的にパーティーに出掛ける「オフ」の女主人公も露悪的な人物だ。

 

これらの描写から伝わってくるのは、エイミー・ベンダーが偽善のにおいにとても敏感だということだ。実に注意深く偽りの感情を排除している。ヒューマズムについても同じ態度で、決してそれをふりかざしたりオチに使ったりしない。人は簡単にわかり合えるものではないし、他者を受け入れることについても安易に考えないほうがいい。世の中が称揚する人間関係のあり方に、根源的な懐疑を投げかける人なのだ。

そういう考えの持ち主が書くのものには当然ながら孤独がにじみでる。実際、登場人物たちはひんやりした孤独感を発しつつ屹立している。しかしここが彼女の作品の特異な点なのだが、一見、冷ややかなタッチの中にチロチロと燃えているものがある。冷たさと熱の奇妙な同居が実現しているのだ。目を開けながら夢を見ているような、醒めつつトリップしているような、あやうくもエロチックなバランス感覚があって、絶望を知っている人の暖かさとでもいうべき、簡単には失われない人への信頼が、奇妙なストーリーを運んでいく船底を洗っている。それは懐疑の果てに訪れた愛であるだけに、読む者に深い安堵を与える。

痛み、熱情、冷淡さ、憎しみ、恐怖、不安など、人のもつ感情を観察し、それをくっきりと的確に描くことに、とりわけ心血を注ぐ人である。それは偽善のにおいを排するためであるのと同時に、公正に物を見ようとする彼女の倫理観に因っているようにも思える。突飛な虚構的世界を描いているが、嘘の嫌いな人なのだ。

いま、『わがままなやつら』というタイトルに思いを巡らしていて、収められた十五篇にこのタイトルのものがひとつもないことに気がついた。なるほど、出てくる人物はだれしも強情さを抱えている。偽善を見抜き、妥協を嫌う、一筋縄ではいかない人たちである。自分の作り上げた人物たちに、このような名を与えて世に送りだすところに、この作家のならではの独特の肌が感じられる。

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