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『夏みかん酔つぱしいまさら純潔など 句集「春雷」「指輪』鈴木しづ子(河出書房新社)

夏みかん酔つぱしいまさら純潔など 句集「春雷」「指輪

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 ある女性俳人の遺したふたつの句集が一冊となった。


「春雷」より


 畦(くろ)ゆくやマスクのほほに夜のあめ


 霜の葉やふところに秘む熱の指


 うすら日の字がほつてある冬の幹


 冬雨やうらなふことを好むさが


 昃(かげ)る梅まろき手鏡ふところに


 春雷はあめにかはれり冬の対坐


 あめ去れば月の端居となりにけり


 かたかげや警報とかるる坂の下


 防諜と貼られ氷室へつづく廊


 銹あらき鋳物の肌と夏草と


 いちじくに指の繃帯まいにち替ふ


 あきのあめ衿の黒子をいはれけり


 湯の中に乳房いとしく秋の夜


 菊活けし指もて消しぬ閨の燈を


 さかりゆくひとは追はずよ烏瓜


 窓をうつしぐれとほのきくづす膝


 冬の月樹肌はをしみなく光らふ

 「指輪」より             

 にひとしのつよ風も好し希ふこと

 秋燈火こまかくつづるわが履歴

 寒の夜を壺砕け散る散らしけり(きづつく玻璃)

 ひらく寒木瓜浮気な自分におどろく

 春雪の不貞の面て擲ち給へ

 肉感に浸りひたるや熟れ石榴

 好きなものは玻璃薔薇雨駅指春雷

 すでに恋ふたつありたる雪崩かな(春たつまき)

 菊白し得たる代償ふところに

 娼婦またよきか熟れたる柿食うぶ

 涕けば済むものか春星鋭(と)くひとつ

 いまさらの如くにみるよたんぽぽ黄

 明星におもひ返せどまがふなし

 月の夜やかさなることを好まぬ葉

 夏みかん酔つぱしいまさら純潔など

 燈の薔薇はもつとはなやげ斯かるとき(明星に)

 鈴木しづ子の名は正津勉『脱力の人』で知ったのだった。その、「娼婦俳人」などと呼び慣わされ、謎のおおい伝説の女人だという彼女のポートレイトが正津のことばで定着された一編は、改稿され本書の巻末にも収録されている。

 大正八年、神田に生まれ、ごくふつうの少女として育った彼女は、ひと目をひく美貌の持ち主であった。女学校時代は文学と詩歌に親しみ、女子大受験を失敗したため製図学校へと進む。製図工として就職した先で俳句部に入り、俳人の松本巨湫と出会い、以後、彼を師として作句に励む。同僚と婚約、しかし恋人は召集され、還らぬ人となる。終戦の翌年、最初の句集「春雷」を刊行。愛しい母の死。俳句仲間の学生と恋に落ち、一方で職場の人に求婚され、結婚。意に染まぬ結婚ゆえか、学生との色恋沙汰が尾を引いていたためか、子どもを授かりながらも堕胎し、わずか一年で離婚。その後東京を離れ、ひとり岐阜へ。一切の音信を絶つが、ただ、師の巨湫の主催する句誌『樹海』へは、師への便りを通じて投稿しつづけた。東京時代、気晴らしにならいはじめたダンスに熱中していた彼女はダンスホールで働き、やがて進駐軍相手のキャバレーに出入りし、ここで黒人軍曹と恋に落ちる、昭和二十五年のことである。正津はこう書く。

 それはもう白い目でみられる。指さされ、唾される。そうだけど意に介さないのだ。

 そんなことはどうでもいいのである。世間の目などあってない。すでにしてしづ子は世間を降りてしまっている。つまりは脱力の人なのである。であればなんだってもうすっかりいいのだ。

 朝鮮戦争。戦地から戻ってきた米兵の恋人は麻薬に蝕まれ、看病の甲斐のなく故郷アメリカへ、ほどなくして、死の知らせがしづ子のもとへ。昭和二十七年、第二句集『指輪』を刊行。東京に背を向け、『樹海』に発表される句によってのみ世に通じていたしづ子はすでに、「伝説」の人となっている。このとき催された出版記念会は、しばらくぶりに東京に現れたしづ子をひと目みようという人たちで大盛況だったというが、この日を境に、しづ子は消息を絶つ。その後、ヒロポン中毒だ自殺だと「墜ちた女」の噂がささやかれた。

 しづ子が消えてなお巨湫は、その死の前年の昭和三十八年まで、それまで投稿されたしづ子の句を『樹海』に発表しつづけた。

 作られた句を作者に重ねて詠む。「娼婦またよきか」と詠んだ。それだけでなんだってみんなスケープゴートにしてしまいたいものだから、しづ子は「娼婦」になってしまう。かくて伝聞の果てに伝説が生まれる。

 同じ過ちを犯す。こうしてしづ子について書くことにしてからが、同じ徹を踏んでいることではないか。

 東京を離れ、しづ子の作句はより熱をおびた。便りは巨湫に宛てた投句のみ。『樹海』掲載にあたっての選句は師にまかせた。その選択が、作者の像を演出する向きも少なからずあったという。弟子もまた、師の意図を汲んで詠むということもあったのではないかと、それがいっそう、しづ子の「伝説」をひろげる一因ともなったかもしれないと正津は指摘している。

 しづ子にまつわる数々の伝聞が、仮に真実であったとして、戦後の世に似たような道をたどった女はいくらでもいたはずで、それが「伝説」とまでいわれてるのは彼女が書く人であったためである。そしていまなお、彼女の仕事は、その伝説と切り離しては世にでることが叶わない。

 その時代にあっては、過激とうつる句もあったろうが、こんにちの私の感覚からしては、さほどの衝撃もなく、ぜんたいを通しては、むしろどこか少女趣味的、静謐で澄んだ印象のほうが先にたつ。

 すべてを踏まえて、しかしひたすらにその句を読んでゆくしかないだろう。そこにはただ、しんみりとわが身を愛おしみ、ときに絶望し、あるいはせいせいと強がる、生きることと書くことのへだたりの、あまりに緊密であったひとりの女性がいる。


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