『桜の森の満開の下』坂口安吾(講談社文芸文庫)
「峠という結界で」
桜の開花と散花ほどに時を感じさせるものはない。今年も地元の桜の推移にこころ巡らせていたものの、異郷の桜を求める欲に駆られ、気がそぞろになった。ところが、遠い地の或る桜を死ぬまでには拝みたいと望んでも、見動きのとれる日柄と天候が、桜前線の流速に折り合いのつくことがない。そうして今年も拝み損なって、皮肉にもこれで寿命も延びるのかと思っていたら、『桜の森の満開の下』が目についた。
『桜の森の満開の下』は、古典文学を下地とした13の物語を集めている。いずれも戦後の昭和22年から28年に書かれた秀作揃いで、なかでも「桜の森の満開の下」は、表題となるに相応しい完成度の高い作品である。言葉遣いは極めて平明で、いわゆる名文の格調はなく、突出した個性を感じさせない文体が、物語を物語として読ませていく底力となっている。
「桜の森の満開の下」は、「桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になります」という言葉を枕として幕を開ける。梶井基次郎の「桜の樹の下では」を連想させる桜の不安は、鈴鹿峠を舞台として、物語の序破急に乗って浮き彫りにされていく。「花の下は涯(はて)がないから」という漠然とした不安に駆られ、満開の桜の下では「怖ろしくなって気が変に」なる山賊が物語の主人公である。
その山賊は「女が美しすぎたので、ふと、男(女の亭主)を斬りすてて」、その女を自分の8人目の女房にしてしまう。ところが、この女房こそ怖ろしく、6人の女房を山賊に殺させたうえに、残る一人を自分の下女にし、尽きのない欲で男を翻弄し始める。意匠を凝らした着物や櫛・簪(かんざし)を女は求め、男はそれらの美に満たされもし、その魔術に納得もするのだった。ところが、「女の欲望は、いわば常にキリもなく空を直線に飛びつづけている鳥のようなもの」だった。
そして男に都を怖れる心が生まれていました。その怖れは恐怖ではなく、知らないということに対する羞恥と不安で、物知りが未知の事柄にいだく不安と羞恥に似ていました。…けれども彼は目に見える何物も怖れたことがなかったので、怖れの心になじみがなく、羞じる心にも慣れていません。そして彼は都に対して敵意だけを持ちました。
桜のほかに怖れるものを持たず、人斬りを茶飯とし、野卑で策を弄さず、人里に居心地を得ない山の男に変化が生じる。
男は山の上から都の空を眺めています。その空を一羽の鳥が直線に飛んで行きます。空は昼から夜になり、夜から昼になり、無限の明暗がくりかえしつづきます。その涯に何もなくいつまでたってもただ無限の明暗があるだけ、男は無限を事実に於て納得することができません。
女はやがて、山の暮らししか知らない山賊に都へ移り住むことを強いる。挙句に、女はあの首が欲しいこの首が欲しいとねだり始め、山賊は言われるがままの殺生を繰り返す。白拍子の首、大納言の首、姫君の首に僧侶の首。しかも、持参された幾多の首は女房によって頬ずりされたり化粧されたり、朽ちて白骨となるまで弄ばれる。
女の美しさと狡知の涯のなさにあって、男は馴染みのある不安を覚え始める。それは桜の満開の下の不安にほかならない。
彼は気がつくと、空が落ちてくることを考えていました。空が落ちてきます。彼は首をしめつけられるように苦しんでいました。それは女を殺す事でした。空の無限の明暗を走りつづけることは、女を殺すことによって、止めることができます。そして、空は落ちてきます。彼はホッとすることができます。然し、彼の心臓には孔があいているのでした。彼の胸から鳥の姿が飛び去り、掻き消えているのでした。
残虐な殺戮と強奪を一片の畏れもなく繰り返しながらも、朴訥なほどに従順な男がいる。狡猾に男を支配しながら、美の魔術によって残酷を強いる女がいる。そして、峠という国堺、その先は異郷という結界の地で、この男と女の物語はクライマックスを迎える。
山と都、男と女という対比がありながらも、その両極は結局、男つまりは坂口安吾に内在する孤独を起源とする。貪欲に創造を求め、文学を糧としながら放浪する男の生き方こそは、「常にキリもなく空を直線に飛びつづけている鳥」にほかならず、その涯のない「無限のくりかえし」を止めるものは、故郷という里であるはずだった。女(つまりは原型である母親)は希求されながらも与えられず、その飢餓が生む憧憬と敵意が、物語のなかの女房を媒体として、さらには満開の桜への不安という形で集約されていく。
故郷に居どころを得ず、さりとて異郷に安逸を得ない人間が、ふたつの場所の境界へ向かって馳せていく。折り合いのつくはずがない生き方のひとつの結末が、「桜の森の満開の下」には美しく象徴的に示されている。峠の桜の満開の下で物語は終わる。