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『心中への招待状-華麗なる恋愛死の世界』小林恭二(文春新書)

心中への招待状-華麗なる恋愛死の世界

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虚実の際(きわ)に耐えた心中の観客たち

 著者の小林恭二三島由紀夫賞を受賞した『カブキの日』のみならず、『悪への招待状―黙阿弥歌舞伎の愉しみ』の著作もあるように、歌舞伎をはじめとする古典芸能に造詣が深い。本書では、心中文化の始祖である近松門左衛門の「曽根崎心中」をテキストとして心中の本質が開陳されていくのだが、いろはを教えるように導く小林は読者に知的無理を強いない。小林の語り口は直裁で活きが良く、拍子木の音が聞こえてくるようなリズム感がある。「心中への招待状」というタイトルは的を得ていて、まさに小林流エンターテイメントの世界へと招かれて、読み終わってみると文楽公演のサイトへとサーフしていたりする。袖引きが上手い。

 そもそも袖引かれたのには訳がある。過去5年間、わたしは執拗なほどにネット心中にこだわり、海外の学会で馬鹿のひとつ覚えのように心中を口走り、心中蟻地獄に嵌っていた。心中は英訳するとsuicide pact とかdouble suicideとか味気ない言葉に様変わりしてしまう。もっとも、ネット心中の場合、心中とは名ばかりで心中(しんちゅう)の人との情死という元来の意味合いはすっかり抜け落ちる。そういうわけで、ネット心中がどのように「本当の」心中と異なるのか、という妄執に憑かれての5年間だった。つまり、当たり障りなく言えば知的興味から、事実上は職業病にしては逸脱の過ぎる地獄の延長として、わたしは『心中への招待状』を手にしたのだ。

 小林の定義からしても、ネット心中はもとより親子心中や無理心中は心中の埒外となる。トントン拍子で読めるような本でありながら、あとがきにも告白されているように、小林自身も心中の捉え方が執筆にあたっての困難であったという。その格闘の過程で、「心中は窮してするものではない。むしろ幸せの絶頂でするものだ」という転回がなされている。

 その転回を説くうえで、心中が上方文化から生じたものであること、江戸趣味とは「粋(イキ・スイ)」の認識が異なることなどが挙げられていて大いに合点がいく。

九鬼(周造)はイキについては、媚態、意気地、諦めという三つの徴表があるとします。…九鬼氏の表現を借りれば「運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心」という心境に到達せねばなりません。これが諦めです。…

さて、媚態と意気地まではイキもスイも(江戸でも上方でも)同じだと思います。…問題は三番目の諦めです。…

江戸において恋は、結局は遊びだという見切りがないといけなかったのです。もしその見切りがないと、ゆくところまでいって心中しなければならなくなる。そんなのは野暮の骨頂だ、というのが江戸人の美意識でした。

しかし大阪では違います。彼らは心中を決して野暮だとは思いませんでした。むしろゆくところまでゆきついた愛であるとして、喝采したのです。

 確かに、心中の専門書(けっして多くはないが)では、心中は追い詰められた者たちが止むに止まれず選択する(させられる)暗く悲愴な出来事として捉えられる傾向がある。儒教文化が浸透した江戸時代の義理人情が織りなす柵(しがらみ)からの飛翔として心中は描かれ、観客はその悲劇にカタルシスを覚える、というような脈絡だ。けれども、小林は言い切る。「心中は封建的抑圧とはまったく別の文脈から発生したのです」。

 勿論、遊郭を発祥とした心中に社会的制縛が無関係であるはずはない。小林はむしろ当時の社会・経済事情を生き生きとしたかたちで再現したうえで「喝采」と表現している。実際の心中事件を浄瑠璃台本化した近松は、事件勃発から十日かそこらで「曽根崎心中」を書き上げているわけだが、その躍り沸き立つような当時の大阪の息吹きが、時代考証を踏まえた小林の文中から漂ってくる。元禄大阪という享楽の都のなか、曽根崎天神という神域の森でなされた心中によって、死を「ケガレから祝祭へと変化」させた事件が匂い立ってくる。

 考証という意味では、「曽根崎心中」が、現行の歌舞伎はもとより文楽としての「曽根崎心中」とすら異なること、なにゆえそのように変容していったのか、などの説明も興味深い。筋書きは変えられ、なによりも心中の修羅場(つまりは殺傷場面)が割愛されるという一大事までがなされ続けている。人形浄瑠璃ならではの色情と惨血の表現が、歌舞伎など生身の人間の演じる舞台では不適切になるという一因も頷ける。けれども、近松入魂の心中リアリズムを残酷という理由で衛生化してしまう元禄以降の観客に、小林は堕落と弛緩を読み取っている。憂さ晴らしではなく、生の意味を知りたいがゆえにやってくる観客への信頼があってこそ、ドラマの頂点である修羅場を近松は書き、観客もまたそれに耐える心意気を持っていたという意見にはまったく賛同する。

 もうひとつの本書の白眉は心中の首謀者を女性と言い切っていることだろう。

まず一般論として、心中の導き手は常に女性であることを確認しておかねばなりません。…両性ともに死は考えます。ただ男性が女性に死を切り出す場合、それは無理心中のかたちをとりやすいのです。

 「女性側の死に対する直裁な願望が、男性の中で化学変化を起こし、それが再び女性に反映するかたちで甘美な心中が完成する」と小林は書く。果てに、太宰治の心中の真相へと筆は進み、ここまで書いてしまって大丈夫なのかと案じるまでの潔さを披歴している。女性が恋愛の絶頂という機運を生かし、母性を醸して男性を庇護するかのように誘って、死への道行を全うさせる。そう考えると、心中はいかなる形態のものであっても、究極的には他殺であることを免れない。本書は、そのような思路を辿っては重苦しくなるわたしの鬱陶しい性質を軽妙洒脱に払拭しつつ、本質的には視点を共有する小林の器量に感服させられる一冊である。

 「曽根崎心中」以後、元禄はコピー心中に見舞われた。幕府は慌てて対策を企てた。今も昔も変わらない。人間はドラマを求めるのかもしれない。浄瑠璃(はたまた演劇一般)がいかに死を扱おうとも、そこには生の凝縮がある。そもそも、所詮は人形が立ち居振る舞い、しかも人形遣いが剥き出しでぞろぞろと現われては、義太夫や三味線弾きまでが堂々と登場する虚構丸出しの舞台が人形浄瑠璃である。つくづく思い返すに、このような奇怪な設定が、子供騙しの舞台を越えて芸域に達したという事自体が驚異ですらある。現実と虚構の際(きわ)で進化した日本独自の芸能の精華が文楽にはある。虚実の際を踏み外して現実の心中へと流されていく観客が古今を通じてあったとしても、その際に踏みとどまってドラマを堪能する腰の座りが、現代の日本に欠落しているのは確かであろう。


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