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『エッセンス・オブ・久坂葉子』久坂葉子 早川茉莉・編 (河出書房新社)

エッセンス・オブ・久坂葉子

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エッセンスのままで逝った人

 カバー袖にある、スカーフで髪をくるみ、上目遣いに頬杖をついた写真からは、このひとが二十一歳の大晦日に終電車に飛び込んだとは思えない。冷たい夜のプラットフォームよりも、真夏の海辺のほうが似つかわしいようなこの表情ははたして、久坂葉子の偽りのない彼女の資質からのものだったろうか。

 「淀んだ血」と題された三つの小品がある。

 「私は嘘をつくことが、どんなに便利に簡単に、人をたのしませるものだか知っていた。」(「淀んだ血A」)。

 家族をよろこばせ、その愛を受けるための、幼い娘・由布子の嘘。長じてそれは、彼女にとって「安息の地では決してない」家庭内で生きていくための技術でしかなくなる。エリート主義で、子どもたちが望み通りに成長しないことに我慢のならない父親に対してはことに、彼女は自らのありのままの姿を決してみせることをしなかった。

 「御機嫌取り、由布子の嘘は、殆ど毎日くりかえされ、父は由布子一人をわが党のものだと信じていた。父は、自分の教育の仕方に絶大な自負心をもっていた。そして、由布子を、自分の類型のように仕立てあげようとし、又それにほぼ成功し得たと思っていた。」(「淀んだ血B」)

 「由布子」と「父」の関係はそのまま、作家久坂葉子の父娘のありようを映したものである。

 遺作とされる「幾度目かの最期」でもそれは語られる。その大半は、死の直前までの、三人の男性のあいだで右往左往する彼女の心の揺れ動きが綴られ、結局彼女は、愛というもののなんたるかをわかりかねたまま逝ってしまったように私にはみえるのだが、そんななかで、自分の「キジ」(生地)を決してみせず、「真実を語り合うことをよして」しまった父親への憎しみとあきらめについては、その筆が妙にくっきりとしているようなのだ。彼女がすこしでも、父親への絶望の確かさを疑うことができさえすれば、〈恋愛感情のもつれ〉など容易に解けたのではないか。

 解説によれば、本書は本来「ベスト・オブ・久坂葉子」を目論んでいたという。それが「エッセンス・オブ・久坂葉子」として編まれたのは、主要な作品のつらなりからはこぼれ落ちてしまう数々の「きらめく掌編」たちが、さらに彼女の作品を読むためのきっかけとなることを願ってのことだという。

 思えば久坂葉子は、エッセンスそのもののままで人びとの前から姿を消してしまった作家ではないか。銀の匙をくわえて生まれ、諸芸に親しみ、それぞれに才能を発揮し、小説では十九歳の若さで芥川賞の候補となり、死にとりつかれ、またたくまにいなくなってしまったひと。その、「きらめきの一粒一粒」を思いのままに味わう読者が、それぞれの久坂葉子を醸成させてゆけばいいのかもしれない。

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