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『槿』古井由吉(講談社文芸文庫)

槿

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離魂サスペンス

 古井由吉の作品では、主人公が頻々と自らの背中を見る。そこには、客観視と呼べるような強(したた)かさはなくて、むしろドッペルゲンガーの危うさや仮初(かりそ)めさに匹敵する浮遊感がある。いっそ古風に、脱魂や離魂、または影の病と呼んだほうがしっくりするかも知れない。

 思い返せば、処女作「木曜日に」で語られる記憶喪失とは、この病にほかならなくて、「円陣を組む女たち」で綴られる意識とは、回想や連想の形をとって遊離した影の流れとも読める。これら萌芽は、その後の短編でも開花することになるが、ひとつの発展形は「沓子」や「棲(すみか)」で、そこでの脱魂は女性を主軸に起こり、その現われ方も精神病院が登場するほどに物々しくなる。他方、主人公である男性はというと、常軌を逸していく女と肌を合わせつつ、彼女らの影にエスパーさながらの感応を示すものの、究極的には「現実」に居留まる役廻りを担うようになる。つまりは、かぐや姫のようなもので、月の精は月へ戻り、男はこの世に居残る、という風に束ねることも出来なくはない。女性という絶対的異界に接して、男性はマレビトのごとく遊行・離魂しても、所詮は現実に帰還する。

 ところが、『槿』を転機として、古井はもうひとつの発展形を編み出していく。そこでは男も常軌を逸し、しかも二つ以上の影が感応し合って、影の伝染病が複雑に拡大していく。執筆家らしき主人公の杉尾は、献血をきっかけに介抱した女に「一度きり、知らない人に、自分の部屋で、抱かれなくてはいけない、避けられないと思ったんです」と尋常でない口説きを受ける。妖しい勧誘の辞退と引き換えに貰ったのが、アサガオの鉢というわけだ。古井の定番設定である友人の葬式(しかも自殺)も登場し、その妹がまたアサガオの女に引けを取らずに妄言かしましく、少女時代に杉尾に犯されたと頑なに主張する。加えて、友人の通夜で再会した石山なる男こそ、精神病院に運ばれる羽目となるのだが、彼ら三者の妄言はやがて連環を成し、杉尾を或る真実へと導いていく。

 興味深いのは、他の作品とは違って、彼らの離魂や病に申し訳が付されているところだ。登場人物がそれぞれに抱く妄想や感応には原因があるという次第で、その謎解きがこの作品には組み込まれている。影の病が現実における或る罪に起因するという物語の臍へ向かって臍帯を辿るおどろおどろしい筋立てが、粘りと淡麗さを併せ持つ独特な文体を貫いている。その意味で、『槿』はサスペンス仕立てとも言えて、今では小道具とはなり難い黒電話や赤電話が効果的に使われている。

 ところで、現在の病の根が過去の或る一点に集約できるということは、『槿』が未だに時空間の尺度を保っていることを示唆している。後年の作品群では、その尺度は見事に手放され、離魂を経て戻る自分という境界への拘(こだわ)りも滅法薄れていく。時空間は混沌とし、主体も不鮮明となる。つまり、エントロピーが増大していく。さりとて、自身や場が解体するのではなくて、個体を頓着しない影こそが、万物の流れを定めているかの安逸の境地に、古井は踏み込んでいったようである。個々の男と女の間にのみ起こる影の盛衰でもなく、山の気に触れての脱魂でもない、影の複合体を描いた本書は、山と都会の弁別を古井が消去していく前兆を宿している。

 題名の『槿』はムクゲと書いてアサガオと読ませる。槿(きん)花(か)一朝(いっちょう)の儚(はかな)さに由来する命名と聞くが、冒頭からして登場する十歳の頃の記憶が、実はこの小説の正体でもある。腹を渋らせる少年が暁に見たアサガオを、四十も過ぎた主人公は想起する。アサガオの「青く粘る臭気」がひろがると、「人の肌までも同じ青く粘る精に染まった。粘りながらどこか線香の鋭さをふくんでいた」。「あの朝、十歳の小児が露に濡れて、自分は生き存(ながら)えられないような体感を抱え込んで股間には重苦しい力を溜めていた」と記される冒頭の2頁に、『槿』の胎盤があるように思われる。そして、古井の稀に見る文体こそは、処女作から現在に至るまで一貫して、「粘りながらどこか線香の鋭さをふくんで」いる。

 益々常軌を逸した境地に向かっている古井作品の遍歴を辿ろうとすると、図書館を頼りにしなくてはならない現状のなかで、講談社文芸文庫の一層の健闘を祈るばかりだ。


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