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『忘れられたワルツ』絲山秋子(新潮社)

忘れられたワルツ

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トカトントンの降臨

 絲山秋子は、2003年のデビュー以来、一定の質と量の執筆を維持しつつ、着々と成長している。粗暴な棘を孕んだ荒々しさと、心の機微を読む繊細さが巧みに同居するところに、この作家の醍醐味がある。二極の妙と言えば、奇抜と平凡のバランスも然り。奇言奇行を暴発させ、常軌をカラリとひと跨ぎしたかと思えば、ふわりと幻想的なミステリーゾーンに着地する。そうかと思えば、ピントの合った常識が、共感の誘い水となってきちんと機能する。そのうえで、センチメンタリズムが腐臭を放つ不手際は犯さない。双極の果てへと振り切らない抑えと小気味よい飛躍が維持されている。

 絲山秋子の二極の妙は、対話に威力を発揮する。頻出する各地の方言も、標準語では収まらない気炎を上げる特殊効果を担っている。『逃亡くそたわけ』は、わたしの好きな作品だが、精神病院を脱走するコンビの道行を描いたもので、躁患者と鬱患者という文字通りの双極が登場する。そこまで具現化しない他作においても、夫婦・親子・恋人・友人のあいだで交わされる調和・不調和は、人間の振れ幅と共振の味わいを的確に描写している。

 つくづく思うに、絲山秋子という作家は、他者という異人を忌避せず、忘れず、放置しない。孤高に陥ることがない。故人も含めて、他者との距離感に絶えず敏感でいて、離れ切ることをしない。この人間観をわたしはとても好ましく思う。

 さて、最新刊の『忘れられたワルツ』は、7つの短篇を収めている。明らかにポスト3.11を基調とした作品群で、装丁からしてどこか鎮魂歌めいている。表題の「忘れられたワルツ」にいたっては、正面から震災の被害者を描いた作品である。デビュー作の「イッツ・オンリー・トーク」から始まり、『海の仙人』・「沖で待つ」・『末裔』など、絲山の作品に死の影が差し続けていることを思えば、本作はけっして驚きではない。絲山秋子は、デビューから一貫して、死者を担って書き続けている。悲観でも楽観でもなく、頽廃でも高踏でもない運命感を、悲劇でも喜劇でもないかたちで、時に猥雑に、時に抒情的に描き続けている。

 死を担うといっても、鎮魂や追悼が主題となっているわけでは必ずしもない。日常に控えている予知できない死、不気味でもあり、不可避でもある事態に、絲山秋子はずっと取り組んでいる。時には仙人と呼ばれ、時には神と名づけられる何(者)かが、頻々と登場するのが絲山作品の特徴だが、仙人も神も、頼りにもならなければ、救いにもならない。彼らは、虚無を埋める何か、あるいは虚無そのものの訪れや予感であるかのように、ふいに現われて、ユーモアと淋しさを湛えて、ふっと消えていく。

 『忘れられたワルツ』にも神は登場するが、頓狂な気配は影をひそめている。全体に静謐な凪を感じさせる音調となっている。著者の狼藉を好むわたしとしては、この凪に退屈を感じさせる作品もないではない。けれども、「NR」という一篇だけを取り上げても、本書には充分な魅力がある。

 「NR」は、津田と湯浅という中年サラリーマン男性の一日出張を描いたものだ。この二人、『逃亡くそたわけ』の双極コンビとは対照的で、およそ似たり寄ったりに見える。登場人物の視点を切り替えるという手法は、『袋小路の男』や『妻の超然』で実験済みだが、短篇である本作にも採用されている。したがって、津田の視点、湯浅の視点、津田の視点…という具合に繰り返されるわけだが、それを承知で読んでいても、やっぱり二人の差異は不明瞭になってくる。どっちがどっちだか、わからなくなる。このモヤモヤ・ボヤボヤ感が意図されたものなのかどうかは判らない。が、終局、「トカトントン」に諸とも呑みこまれていく経緯を考えると、作者の意図はどうであれ、上手く出来た小品だと感服するほかない。仙人でも神でも占い師でもない、太宰治の「トカトントン」が、見事に埋め込まれた異色の秀作だ。ポスト3・11に「トカトントン」を据える絲山秋子という作家は、とても正直な人間だと思う。


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