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『腰痛放浪記 椅子がこわい』夏樹静子(新潮文庫)

腰痛放浪記 椅子がこわい

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お遍路 乱れ打ち

 石を投げれば腰痛病みに当たる。それほどに世に腰痛持ちは多い。他人事ではない。わたしの腰痛歴も長く、鍼灸・整体の世話になること頻々で、不思議なことには、五十肩に苦しんでいる間だけは腰痛から解放されていた(四十肩の時はなかった現象だ)。けれども、椅子がこわくなったことはない。

 著者の場合、居ても立っても寝ても起きても忍び難い痛みに襲われ続けて3年というのだから酷い。夏樹静子50代半ばのことだ。整形外科、内科、婦人科、神経内科、精神科を渡り歩くのは序の口で、水泳はもとより、硬膜外ブロック・イオンパンピング・漢方薬鍼灸・気功・お祓い・びわの葉療法・心理療法・音響療法など、表題に嘘のない放浪が続く。ついでながら、立ちながらできる碁盤やら文机の注文作成、タクシー送迎、2席分の飛行機予約など、著者の腰痛は随分と高くついている。俗に言うドクターショッピングとはどこか異なる印象とはいえ、勧められた治療はことごとく試される。必死といえばそれまでながら、徹底した受身は果敢な新規開拓と背中合わせとなる。放浪とは、じっとしていられない人柄の結果でもあり、乱れ打ちのごとき遍路は、お太師さんならぬ腰痛との同行二人を尚更に強化する。

 やがて、札所に控える治療者陣は、同じ方向へ推理を収斂させていく。

「原因はメンタルなところにあるんじゃないですかね」とは、某整形外科医の弁。

 別の整形外科医は、

「ねぇ、夏樹さん、一から出直すつもりで、ただの主婦になれませんか」

 さらに別の医者いわく、

「あれだけ書けばもう充分じゃないですか。これからは退却戦を戦うようなつもりで、暢気にファジーにやってください。そうすれば腰痛なんて自然に治りますよ」

 加えて、

「あなたがいつまでもいつまでも第一線で仕事をしたいと望む、その心の執着が痛みを生んでいるのだ」と断言するホームドクターまで現われる。

 まだまだ続く。森田療法専門医の台詞ともなると、随分とソフィスティケートされて、

「夏樹静子という誰にでも知られた大きな存在を支え続けることに、あなたの潜在意識が疲れきって耐えられなくなっているのです。…あなたが腰や背中が自分を支えられないという、それは実にシンボリックな症状ですね」

 これらの柔硬様々なコメントへの著者の反応はというと、

私は「心因」や「心身症」を認めたくないのではありません。プライドが傷つくとか、そんなことは少しもないのです。むしろ百パーセント心因であったらどんなにいいかと願うほどです。それなら必ず治るでしょうから。認めるのがいやなのではなく、いまひとつ腑に落ちないのです。

 腑に落ちるとは言い得て妙な表現で、心理治療の肝腎カナメでありながら、落とす方も落ちる方も当然のこと簡単ではない。夏樹さん、ここでは慎ましい理性の泣き言を零している。至極もっともな嘆き節である。

 ところが、遍路も終盤となると感情の裾は乱れる。

「いつか先生は、作家は本を書いてナンボのものとおっしゃっていましたけど、お医者さんだって同じでしょう。いくら立派なご託を並べたって、治してナンボじゃないですか」

 彼女は正しい。臨床場面で口にされることは稀ながら、治療者と患者の双方が胸中に抱く本音にほかならない。先の嘆き節も本音には違いないが、理性の泣き言が感情的喧嘩腰へとすり替わっているところに変革がある。場所は、熱海の温泉病院。絶食・自律訓練法添えの入院森田療法だ。

 退院も間近となると、平木英人主治医は告げる。

「夏樹静子のお葬式を出さなければなりませんね。いつがいいですか」

 相対する著者は、うろたえつつ、

「ちょっと待ってください。もう少し、心の準備が…いったん葬ってしまったら、二度とまみえることはできないから…」

 驚くべきことに、腑に落ちていなかったはずの著者が、主治医のシナリオに同化している。つまり、いつの間にか心因説が腑に落ちているのだ。

 本書には実話ならではの臨場感があるものの、「腑に落ちた」カラクリが読めないもどかしさが残る。それこそ謎解きされないミステリー小説のようなものだ。心身相関と潜在意識の存在を確信したことが放浪を経て学んだことであると著者は言う。しかし、上記のように、多くの治療者が同一のメッセージを告げていたにもかかわらず、熱海で治癒した不思議を本書は必ずしも明らかにはしていない。ふと気づいてみたら嘘のように治っていて、本人も狐につままれたように腰痛から解放されて、結願成就と相成っている。

 いったい何が治癒をもたらしたのか?主治医の仮説(心因シナリオ)が「正しくて」、それをより深く洞察できたからなのだろうか?シナリオを腑に落とせるほどに治療者を信頼できたからであって、仮説の正誤は二の次なのだろうか?治療者との相性が良かったからなのだろうか?時間をかけて丹念に傾聴するという治療者の姿勢自体の効果だろうか?結局は、治療者の人格の問題だろうか?絶食と遮断環境は、著者にとって(治療者の理論的根拠ではなく)どういう意味があったのだろう?

 本書で描ききれなかった上記の疑問は、続編とも言うべき『心療内科を訪ねて―心が痛み、心が治す―』で追補されている。様々な心身症に病む人々をインタビューしたオムニバスで、心身相関の観点を啓蒙し、病者に希望を与える著書である。けれども、『腰痛放浪記』の半落ち的ミステリーの全貌は、続編で解明されているわけでもない。「心身相関」と「潜在意識」は犯人のプロフィールに過ぎなくて、自供する生の顔と声がつかめない。わたしとしては、喧嘩腰が腰痛に効果があったのではないかと訝らないでもない。いずれにしても、人気ミステリー作家は、感情という黒幕を登場させることなく、腰痛ミステリーに幕を下ろしている。


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