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『評伝 森鷗外』 山﨑國紀 (大修館書店)

評伝 森鴎外

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 2007年に刊行された鷗外のもっとも新しい評伝である。著者の山﨑國紀氏は天理図書館に秘蔵されていた鷗外の母、峰子の明治32年から大正4年にいたる17年間の日記を『森鷗外・母の日記』として翻刻した人で、本書にも重要な資料としてたびたび引用されている。

 本書は大版の上下二段組で800頁を超え、それに20頁の年譜と参考文献、17頁の索引がつく。写真は口絵に二葉、地図は津和野藩と浜田藩のいりくんだ位置関係を示すものが一枚掲載されているだけだが、図版を中心にした本は別冊太陽新潮日本文学アルバムなど入手しやすいものがあるので、これはこれで見識だろう。

 明治十年代、明治二十年代のように元号にしたがって七部にわかれる。明治17年から20年におよんだドイツ留学が第二部と第三部に分断されているのは機械的だが、従来「豊潤の時代」とされた時期を「第五部 明治四十年代」と「第六部 大正時代」にわかつのは本書の積極的な主張にかかわる。

 小倉転勤、日露戦争、軍医総監就任と多忙な時期がつづいた後、鷗外は明治42年から文壇に復帰し活発に作品を発表しはじめる。木下杢太郎が「豊潤の時代」と呼んで以来この名称が定着しているが、著者は42年から明治末年までは地味な小品ばかりで同時代人から評価されず、長編小説を次々と世に送りだして好評を博した漱石に対して焦りをおぼえていた「足ぶみ」の時期であり、本当の活躍は乃木の自決後に書きはじめた歴史小説からはじまるとしている。確かに『青年』や『雁』が完結して上梓されるのは大正にはいってからであり、鷗外の傑作は晩年の十年間に集中している。鷗外は大正期の作家だったのである。

 評伝は伝記記述と作品評価という二つの面をもつが、「序」に日本近代文学の「先覚者」とよべるのは鷗外ただ一人であり、それを証明するために本書をあらわしたと述べるように作品評価に重点を置いており、鷗外作品は〖舞姫〗のように白抜きの隅付括弧で示して一目で区別できるようにしている。各作品について成立の事情や文学史における意義だけではなく、同時代の受けとり方にもふれているのはありがたい。

 すべての翻訳作品に半ページから一ページの梗概と解題をつけている点も注目に値する。鷗外は欧米の文学の果実を日本にもたらすために全集の半分におよぶほどの厖大な翻訳を残した。小堀桂一郎森鷗外―文業解題〈翻訳篇〉』(岩波書店)や長島要一『森鷗外の翻訳文学』(至文堂)のような案内書もあったが、伝記や創作活動とからめているわけではないし、現在ではどちらも入手できない。鷗外の生涯の中に翻訳を位置づけようとする本書の試みは今後の鷗外研究に資するところが大きいと思われる。

 伝記記述については鷗外は生涯謹厳な人格者だったという見方をしりぞけ、小倉転勤以前の前半生は「人格者」という形容は当てはまらないとはっきり書いている。

 山崎正和氏は弟篤次郎が川田家へ養子にいく話をつぶした件を鷗外が「家長の地位」を確立した画期と位置づけたが(『鷗外 闘う家長』)、本書は森家の実質的な家長は母峰子であり、養子反対も母の意を代弁したものとしている。鷗外は極度のマザコンだったから、こちらの解釈の方が腑に落ちる。

 鷗外にとって母の存在は大きかったが、母以上に影響をおよぼしたのは津和野とその文化的背景だと著者は考えている。

 津和野は西側を長州という大藩と境を接していた。軍事力や経済力では到底かなわないので、文化力で対抗しようという合意ができていて、四万三千石の小藩なのにいち早く藩校養老館を設け、尚学の藩として知られていた。実際、東側で接するやや規模の大きな浜田藩がたいした人材を出さなかったのに対し、津和野は西周森鷗外を筆頭に十指に余る人物を送りだしている。浜田近郊出身の島村抱月も津和野藩の飛び地の生まれだったという。

 最後の藩主亀井茲監これみの果たした役割も大きい。茲監は藩学を儒学中心から国学中心へと転換させたが、その際、支柱としたのは脱藩して京都で名をなした大国隆正の学問だった。大国は平田篤胤門下だったが、異人を排撃するたぐいの攘夷を「小攘夷」と批判し、「万国をひきよせ、わが天皇につかしめたまはん」とする「大攘夷」を提唱した。養老館が和蘭語を教えるという柔軟さをもちえたのは大国の「大攘夷」思想を中軸としていたからだろう。

 亀井茲監は小藩の藩主ながら明治政府の宗教政策を実質的に決定する神祇局副知事に就任し、後に鷗外と喜美子が和歌の師とする福羽美静とともに朝廷祭祀を天皇が直接おこなう形にあらためている。大国隆正の「祭政一致」の国体観を現実化したのである。

 さて、いわゆるエリス事件である。2011年に六草いちか氏によって『舞姫』のエリスのモデルになったエリーゼ・ヴィーゲルト(本書はとっくに否定されているヴァイゲルト説を採用している)について決定的な発見があったので、この項に関する限り本書の記述は古くなっているが、石黒忠悳宛書簡に見られる「其源ノの清カラサルヿ」、山﨑氏が世に紹介した小池正直書簡の「伯林賤女」という文言、そして子孫がまったく見つからないことを根拠に貧しい健康な少女を性欲処理のために金で囲い者にしたとしている。エリーゼは『雁』のお玉のような境遇にあったというわけで、お玉の描写とエリスの描写に共通点があるという指摘もある。また児玉せきの条では森於莵の「知性も教養も低く、まず一通り善良で相当に美しい気の毒な人」という感想を引き、「あのエリーゼ像と重なってくる」としている(あくまで著者がそう考えるということであるが)。

 「源ノの清カラサルヿ」とあるように動機は不純だったが、鷗外は途中から本気になってしまい、甘い見通しのもとに日本に呼んで事件を引き起こしたというのが本書の要諦である(貧しい少女だったら日本までの旅費はどうしたのかという問題がもちあがるが、その点の考証はない)。

 なぜ鷗外がエリーゼを断念したかは直接は語っていないが、著者が母の意向を想定しているのは以下の条に明らかだ。

 鷗外は、母の徹底した管理の中で育ったため、青年期に至る鷗外は決して強くなかった。〖舞姫〗の豊太郎は、まさに二十代の鷗外の性格でもあった。……中略……帰朝してからの鷗外の執拗な啓蒙活動は、むしろ、弱い自分を鞭打つため、逆に打って出たようなところがあったことは否めない。だから、あのいくつかの論争は不自然さがつきまとい、後世、批判される面も残されたのではなかったか。

 最初の妻赤松登志子に対する仕打ち、医学界における挑発的な言動、年長の外山正一や坪内逍遙にしかけた論争、いずれも八つ当たり的であって「家長」とか「人格者」とかはとても言えまい。

 著者はそこにエリーゼ事件で負った傷を見ている。悲恋、罪の意識、不本意な結婚、おのれの弱さ。そうしたもろもろが若い鷗外の精神を嘖んだというわけだ。

 素人診断ながら、あの鷗外の拘執性は、一種の神経症から来ていたのではないか。神経症にも色々あるが、鷗外の場合、まず被害者意識が己を責め、そこから仮想的な対象が鷗外に補足され、その対象に対し、逆に攻撃的になっていく。神経症状であるから、尋常ならば、一回の攻撃で終わるものが、拘執的になっていく。この神経症は波のように、高いとき、低いときとある。医事論争、文学論争、この明治二十年代の鷗外を、この症状が異常なまでに攻撃的にしたのではないか。

 鷗外自身は陸軍内の順当な人事だった小倉転勤を「左遷」と曲解していたが、小倉への移動がはからずも転地療法的な効果をあげたというわけである。

 しかし小倉転勤以上に鷗外を変えたのはそれに先立つ日清戦争だった。鷗外は第二軍平坦軍医部長として出征し、凱旋もつかの間、ただちに台湾征討軍にしたがって陸軍局軍医部長として台湾にはいっている。著者は日清戦争後「あの青っぽい書生的発想及び、神経症的こだわりがみられなくなった」とし、あれだけの体験があってなお変化がなかったなら「以後の“鷗外”はなかった」と評している。その通りであろう。

 小倉生活をはじめた鷗外は地方の素朴な人情にふれるとともに、ヴントや熊沢蕃山を読み、曹洞宗の玉水俊虠について唯識説を学ぶなど、精神の糧をえようとつとめている。東京では多忙な公務のかたわら、翻訳に創作に八面六臂の活躍をしてきた鷗外だったが、小倉の地でようやく自分自身をふりかえる機会をもったのだ。

 小倉以前の鷗外は全部他人が悪いで通してきた。周囲とのレベル差が圧倒的だったのでそれで済んだわけである。ドイツに留学した際も中井義幸氏の『鷗外留学始末』にあるように目立つことにしか関心がなく、コッホ研究所では下水の細菌を調べろといわれて臍を曲げている。鷗外は中年にいたってようやく自分自身をふりかえるようになったというべきだろう。

 著者は家事と文学が両立できないと不満を訴えてきた喜美子を鷗外が諌めた手紙に注目し、次のように評価している。

 蕃山は、幽閉され無為を過ごしているようにみた客の質問に答え、“天下を治める「大事」と、日常的な「私」の「小事」も、同一の精神作用とみれば何ら違いはない”と述べたのである。「髪を梳り手を洗ふ」という「小事」は、鷗外が喜美子への手紙に書いた「才女がおしめを洗ふ」と同義である。後年、〖カズイスチカ〗の中で、「宿場の医者」たる父が、「詰まらない日常の事にも全幅の精神を傾注してゐる」姿に、「花房」が感服する場面があるが、これは、小倉で生きる鷗外自身への戒めの言葉でもあった。

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