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『レマルク―最も読まれ、最も攻撃された作家』足立 邦夫(中央公論新社)

レマルク―最も読まれ、最も攻撃された作家

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「あのレマルクと二つの大戦」

 書店の棚からレマルクの小説の多くが消えて久しい。このような時代にレマルクの評伝を手に取ろうとするのはどのような人たちなのだろうか。唯一、版を重ねている、彼の代表作『西部戦線異状なし』の読者だろうか。それともこの評伝のサブタイトル《最も読まれ、最も攻撃された作家》に関心をもった人文書の優良な読者だろうか。しかし、没後40年以上を経過した今の時代にあって(レマルクは1970年没)、あのレマルクについての本だから読んでみたいと考える読者は、それほど多くはないはずだ。

 あのレマルクという言辞が成り立つとすれば、それは彼の作品にたいしてそれなりの共感を寄せつつも、作家その人のことを考えると、それが全面的なものには至らず、落ち着かない気持ちのまま現在を迎えてしまったかつての読者たちにおいてである。端的にいえば、レマルク的な生にたいして功罪相半ばする気持ちをいまでも抱き続けている読者である。

 筆者はあのレマルクだから本書を読んでみたいと考えた一人である。もちろんあのレマルクには、先の《最も読まれ、最も攻撃された作家》の意味合いが込められている。レマルクが亡くなったときの西ドイツ紙の見出し《最も多くの人に読まれ、最も賞賛され、最も攻撃された作家》から、本書のサブタイトルが選ばれたことは本文中の引用にも明らかだが、おそらくこれが彼の母国、ドイツにおける最も一般的なイメージだったのだろう。本書は、そのレマルクがどのように読まれ、どのように賞賛され、そして、どのように嫌われたかを、彼の残した膨大な量の日記を中心に検証した秀作である。

 本書を読むとレマルクがどのように攻撃されたかがよくわかる。それだけではない。レマルクの受けた攻撃が多層構造であったことも具体的に明らかにされる。最初に、レマルクを激しく攻撃したのはナチスだった。しかし、彼が受けたさらなる攻撃は、必ずしもナチス側ではないドイツ人たちからもたらされた。ユダヤ系ではないにもかかわらず、彼がドイツとドイツ人を顧みようとしないと受けとられたからだ。

 仮に、レマルクヘルマン・ヘッセのような小説を書いていれば、ふつうの人々の攻撃の矢面に立つことはなかっただろう。だが、なんといっても、彼はあの『西部戦線異状なし』の作者だった。ヘッセは『荒野のおおかみ』の中で、自らがモデルの主人公、ハリー・ハラーの名を借りて、市民的清潔さと秩序、礼儀や温順さなどを大切にするドイツの人々を好ましいという。だが、ヘッセはこうした人たちが自分とともにあるとはまったく考えていなかった。それどころか、必要以上に近づくこともなかった。平凡で正しいといわれる、ふつうの人々の本質を見抜いていたからだ。このような人たちから見れば、ヘッセはたんに変わり者のひとりにすぎなかったが、同じようにドイツを離れていても、レマルクは攻撃の対象になった。

 レマルクへの攻撃にはさらなる一層がある。その賑やかな女性関係にたいしてだ。そもそもあのレマルクといういいかたは女性関係に起因している。マレーネ・ディートリヒグレタ・ガルボなどの名前が頻出する彼の生活は常にスキャンダルの渦中にあった。だが、ここで問題にしたいのは彼の倫理観についてではない。たとえば、レマルクと一歳違いのアーネスト・ヘミングウェイの場合はどうだろうか。国籍こそ違うが、彼もまた第一次世界大戦を舞台にした『武器よさらば』で名声を得た。その後の多彩な女性関係は多くの人たちの知るところだ。しかし、その女性関係を論って、誰もあのヘミングウェイとはいわない。世代こそ異なるが、先のヘッセも女性遍歴を重ねた作家である。だが、あのヘッセとはいわれない。なぜレマルクばかりがそういわれるのか?

 本書を読むと、『西部戦線異状なし』がすべての始まりであることがわかる。ナチスがどれだけ批判しようと、この作品によってレマルクには国民的作家のイメージがつくられた。『西部戦線異状なし』は、一般にいわれる反戦小説としてとらえるよりも、戦争に辟易する社会がこうした小説を欲したと理解するほうが受けとめやすい。だからこそ、イデオロギーの壁を越えて、国民はこの作品に共感を示した。しかし、国民的作家はドイツ国内にとどまり、正しく生活し、読者とともに歩み、その思いを代弁することが求められる。

 一方、作家としてのレマルクの生きかたは違う。それは、二つの大戦とのかかわりの中で起こり得たかもしれない現実、もしくは拒まれてしまった現実、同時にそれらは、結局のところ、実現しなかったいくつもの現実であるのだが、そうした多様な現実の蓋然性を記し、いまある自分の現実と重ねて生きることだ。レマルクには、ナチスに追われ続けたという側面もあるが、実現しなかった現実と向き合うためにも、自己と周囲を客観視できる場所が必要だった。国内で書かれたとはいえ、そもそも『西部戦線異状なし』がそうした要素を内包する小説であった。

 多くの女性たちとの関係についてレマルクに倫理観が欠けていなかったとはいえない。女性たちとの多様な関係は、レマルクにとってたんなる現実ととらえるよりも、多面的構造をもった現実のすがたととらえるほうが正しいだろう。ディートリヒ、ガルボ、ナターシャ(ロシア公女のナタリー・パレイ・ウィルソン)、ポーレット(チャップリンの元妻、ポーレット・ゴダード)など、性格も考えかたも、当然生きかたも異なる女性たちが彼の前には次々と登場する。同タイプの女性は誰一人としていない。多様な現実の世界をレマルクは生きている。

 女性たちについて著者の描き分けはほんとうに見事である。特に、ディートリヒとのくだりは傑出している。筆者はイングリッド・バーグマンが女主人公のジョアンを演じた映画『凱旋門』について世間がいうほどの失敗作だとは思わないが、本書を読んだあと、その役がディートリヒでなかったことをことのほか残念に思うようになった。

 それにしても『凱旋門』の主人公、ラヴィックと作者のレマルクとでは、女性への思いのあらわれが、どうしてこうも違うのだろうか。警戒心が強く、控えめで、ときにストイックともいえるような態度のラヴィックと、まったく逆のレマルク。もちろん作家が小説の主人公に自己を投影する必要はない。だが、ここにこそ、あのレマルクといわれる要因のひとつ、そしてたぶん最大の誤解がある。本書はこの違和感についてひとつの解答を示唆してくれる。レマルク当人を観察するのではなく、彼が出会った女性たち、特に、ディートリヒを追いかければよいことに気づかせてくれる。『凱旋門』を読むとき、わたしたちはラヴィックではなく、ジョアンを見ればよいのだ。

 ジョアンはディートリヒを幾分モデルにしていると著者は言う。確かにジョアンとディートリヒは、その存在のありかたがたいへんよく似ている。ただし、ジョアンは寡黙だが、ディートリヒは多弁だ。ジョアンがあまり話をしないので、ラヴィックはどうしても黙しがちになる。一方、ディートリヒはよく話す。レマルクもそれに合わせて大いに語る。ディートリヒをジョアンに投影すれば、レマルクとラヴィックが本質的に同一であることがわかる。それだけではない。レマルクの人間へのたいしかたそのものが見えてくる。レマルクは敵でない限り、自分に近づいてくる人間を疎かにすることはなかった。だからこそ、求めに応じてヨーロッパとアメリカを目まぐるしく行き交う亡命生活を送ることになった。そのすがたは、逃亡中の隠れ医師の身でありながら常に患者たちを気遣うラヴィックと何ら変わるところがない。

 本書はレマルクの周囲の人々、とりわけ女性たちを描くことで、レマルクを描くことに成功している。まだ彼の小説を読んだことのない人がいれば、本書の後に、こうした生きかたをした作家がどのような小説を書いたか、ぜひ体験してほしいと思う。

 いまでも、注意深く書店内を探せば、書棚の片隅に新潮文庫版の『西部戦線異常なし』を見つけることができるだろう。だが、これは秦豊吉が1930年に訳出したものだ(最初は中央公論社からの発売、後に新潮文庫)。名訳ということで読み継がれているのだろうか? それとも新訳の試みが出版社のセールス方針とは相容れず、往年のベストセラーということで、生き残っているのだろうか? いずれにしても、上掲書以外のレマルクの本を読もうと思うならば、現在では図書館に行くしかない。なお、電子書籍であれば、『凱旋門』は容易に手に入る。筆者はすでに紙の本を所有しているが、だいぶ痛んできたので、電子版が発売されたとき、Kinoppyアプリを用いてiPadにダウンロードした。レマルクに関心をもったならば、まずは『凱旋門』から読むことを薦めたい。


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