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『都市のドラマトゥルギー―東京・盛り場の社会史』吉見俊哉(河出書房新社)

都市のドラマトゥルギー―東京・盛り場の社会史

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 近代以降の「盛り場」研究の入念な検証。明治初期、博覧会とその開催地として近代的な都市計画の舞台とされた上野。江戸以来の盛り場から、民衆の娯楽の地へと変貌した浅草とモダン都市銀座。戦後の高度成長期における新宿と渋谷。近代日本の「盛り場」を、そこに集う人びとがどのように生きるか、という「出来事」として捉え、「都市」と「近代」を読み解いてゆく。


 私がこれを手にしたのは九十年代のはじめ、とくに、近代化の装置として機能した博覧会の、明治国家による「演出」とそれにともなう上野の都市整備を扱ったⅡ章は、著者の二冊目の本である『博覧会の政治学』中公新書、一九九二)とともに繰り返し読んだ、非常に懐かしい本である。

 「都市における意味の秩序を、まさにそれを世界として生き、その過程で自らも組織される人びとの身体性の側から捉えていこうと」する七〇年代以降のテクスト論的な都市へのアプローチを踏まえた上で、本書のなかで著者がとる方法は、「上演論的パースペクティヴ」とよばれるものである。

 これは「都市というテクスト」における「読者/登場人物」の相互媒介的な関係を、彼らが「都市を構成する諸装置によって条件づけられており」「これらの諸装置に媒介された場のコードに従ってはじめてテクストの読者/登場人物となることができる」という点に注目し、都市を「テクスト」と「読者/登場人物」の関係によってではなく、「上演」と「観客/演者=役」の関係によって捉えてゆこうとするものである。その上で「盛り場」=「出来事」という視座もひろげられる。

 「上演論的パースペクティヴ」はまた、自らが主体であると同時に客体でもあるという認識のもとに、都市を読み解いてゆくテクスト論的な方法において、都市がすでに「読まれるべきテクスト」であるという前提により注意深くあろうとする。それは、読むにあたいする都市を、そのようなものとして対象化するわたしたちの感受性をも「おのれの内部から問題化して」ゆこうとする試みであろう。

 「おそらく、上演論的パースペクティヴにとっても最も基本的かつ重要な出発点は、社会的現実の上演においては上演の外側に「真の現実」があるわけではない、という認識である。一方に上演される「虚構の」世界があり、他方に上演されない「現実の」世界があるわけではなく、現実の世界はそれ自体、常に上演を通して演劇的に構成されている。たとえば「演技」とはしばしば「偽りの自己」の呈示であるかのように思われているが、その際、隠蔽された自己が呈示された自己よりも「真である」と主張することはできないのであって、むしろ、ある自己が「真」か「偽」かは、それが置かれるパフォーマンスの社会的文脈のなかで決定されるのだ。

 さらにいえば、上演論的パースペクティヴからするなら、そうした自己そのものも上演の効果として産出される。すなわち自己は、パフォーマンスの原因ではなくてむしろ結果なのである。」

 こうした認識は、ひとの生活上のありとあらゆる場面を読むさいにも採用できる。十何年ぶりかに本書をあらためて読んだ私は、これまで、生まれ育った東京近郊をはなれ、京都に暮らしてきた。ここへきた当初、この観光都市は、住むところでなく訪れるところだという感覚を拭いきれず、しばしば訪れる東京のほうを心安く感じていたが、いまではすっかりここが自分の居所となっている。そこで本書にあたったとき、東京が、自らが「出来事」の構成要素として参加することのできるさまざまな街をもった都市であることを思い出したのだが、さて、では京都はどうか。 

 入れかわりたちかわりやってくる観光者を尻目に、彼らの京都が「舞台」なら、そこで日常を営む者にとっての京都は、観客の目の届かない「楽屋」のようなものであり、ふたつは決して相いれないという感覚を私はずっと持ちつづけてきたようだ。けれども、「上演論的パースペクティヴ」によってこれを眺めれば、楽屋もまた舞台、そこに、上演という虚構に対する現実があるのではなく、そこでもつねに現実が上演されつづけているのである。私という自己をその上演の結果として見据え、京都という街を読み解いてゆくことはできるのだろうか。

 本書のオリジナルが刊行されたのは一九八七年、それから二十年の時を経てたこの文庫版のカバー裏にはこうある「近年の文化研究にも影響を与え続けている新しき古典」。

 八〇年代都市論ブームにおける本書が、こんにち、私たちが生き、私たちによって生きられる都市を問う上で、いまもなお有効であるのは、近代日本の盛り場の分析を通して、上のような視座をわたしたちに示してくれたこと、また、著者が高度経済成長以降の私たちを規定してきた状況を、つねに「明治以来の日本の近代化のひとつの帰結」として捉えようとするその足場の確かさによるだろう。

 「東京の山の手に住む平均的なサラリーマン家庭の子として生まれ」、「近くの公園や友だちの家の庭、あるいは工事中の環状八号線のアスファルトの上やその資材置場」を遊び場とし、「それ以前の世代ならば好むと好まざるとにかかわらず体験したであろう時代のドラマ」を共有しえない世代して、「原風景的なものを欠落させて」生きてきた著者が、本書を書き上げたのは三十歳のとき、あとがきにはこうある。

 「われわれの思想の質が問われるのは、いかにしてそうした所与としての「わたし」や「わたしたち」と対決し、それを乗り超えていくかという点においてなのだ。そうした意味では、おのれの生活史上の出来事に強いリアリティを感ずることのできた世代よりも、それらが最初から薄っぺらな虚構としてしか感じられなかった世代の方が、その彼方におのれを賭すに足るリアリティをもった世界を希求し続ける限りにおいて、戦略的に有利な位置にいると考えることも不可能ではない。

 いま、必要なのは、時代のなかでの自らの無力さについて語ることでも、おのれへの問いを「学問的」な言説のなかで脱意味化することでも、「わたし」の存在の不確かさを時代の表層との戯れのなかで忘却することでもなく、無力さの由来を明らかにし、われわれが生きることの根拠を、たんなる「時代」や「世代」を超えた関係の深みのなかに構想していくことなのだ。」


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