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『癒しとしての笑い――ピーター・バーガーのユーモア論――』ピーター・L・バーガー(森下伸也訳)(新曜社)

癒しとしての笑い――ピーター・バーガーのユーモア論――

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「病いを滑稽に語ること」

著者であるピーター・バーガーは、1929年生まれの非常に著名な社会学者です。『日常生活の構成』や『聖なる天蓋』(ともに新曜社)に代表される、個人の意味世界と社会の構造、近代、宗教といった大きなテーマを扱う著書が多数あります。そんな老大家の邦訳書として久しぶりに紹介されたのは、意外にも「滑稽(コミック、“comic”)」を扱うものでした。


ここでいう「滑稽」とは、うれしかったりくすぐったりするのとも異なる、「何かが可笑しい」という表現ないし知覚を指します。十分にユーモア感覚(滑稽を滑稽と受け取れる能力)をもった聞き手(あるいは読み手)に恵まれれば、笑いによって滑稽は達成されることになります。

滑稽が持つ認識上の貢献とは何なのか。この本を通じてのバーガーの答えをまとめると、私たちが疑いを抱かない現実に対して、それ以外のやり方では閉じ込められたままになっていたであろう別の現実を知覚させ、相対化する、というものです。このアイディアは、それ自体がバーガーのオリジナルというよりも、むしろ、笑いに関する学問的考察の伝統から彼が抽出し(第2章)、さまざまな滑稽表現の文化(第3章以降)を渡り歩きながら確かめられていったものです。

「別の現実を知覚させ、相対化する」といっても抽象的でしょうから、ここでは――バーガー自身も取り上げなかった事例として――病いを滑稽に表現する語りの分析を通して理解を試みたいと思います。取り上げるのは、小池修一さんの「パーキンソン病との出逢い」(http://www.xyj.co.jp/human/hisao/koike/index.html)です。(パーキンソン病については、2006年10月の当ブログもあわせてご覧ください。)

肩の動作の不具合などの兆候から物語は始まり、検査を経て、主人公は「パーキンソン病」と診断されます。彼は大いにショックを受け、鬱々とした日々を送ります。しかし、周囲の人(このケースでは主治医と妻)の励ましや助力があり、セルフヘルプ・グループへ参加を通して、やがて前向きに変化してゆきます。

このような物語の基本的な筋は、それ自体としては(セルフヘルプ・グループに継続的に参加するメンバーのものとしては)決して珍しくないものといってよいでしょう。しかし、この物語には、主人公と状況がコミカルに描かれる、というきわだった特徴があります。

例えば、主人公は、最初に参加したセルフヘルプ・グループの集会で、他の参加者たちが見せる様々な症状――振戦(ふるえ)、表情の乏しさ、不随意運動、突進、言語障害、等々――に自分の将来を重ね合わせ、まるで「魑魅魍魎(ちみもうりょう)、百鬼夜行の世界」だ、と落ち込みます。しかし、そこに美しい二人の女性が現われると、「ゾンビの烏天狗の集団の中に鷺が美しく舞い降りたよう」だ、と途端に機嫌がよくなります。「二人とも難病なのか、若く、しかも女性の身で本当に気の毒だなと思うと同時に、友の会も悪いことばかりではないなと、少し落ち着いた」――しかし、二人は、保健師と患者の家族である(つまり、当人はパーキンソン病ではない)とわかり、主人公は人知れずガックリ。

こうした主人公の少々軽々しい滑稽さは、他のエピソードにも自然に引き継がれています。林檎を丸かじりして差し歯が一斉にとれてしまった「歯抜け爺」(=主人公)は、さんざんたらい回しになった挙句、ある歯科医のところにたどりつきます。差し歯は見事に戻され、ダメになった歯の抜歯と虫歯の治療へと進むことになります。二度目の診療までは心配した症状も出ず、彼はほっとしています。ところが、三度目の診療でドリルの音がなった途端、ふるえが始まってしまいます。最初は「ブルブル」と小さく、しかしやがて治療台と照明灯まで「カタカタ」と動き出すほどに。体は動かせず、口はあんぐりと開けたまま。焦る気持ちとうらはらに、ふるえはどんどん大きくなっていきます。もう限界だ、と思ったその時、歯科助手(やはり女性)の手が彼の腕と胸にふれ、その途端にふるえもぴたりと止みます。助手の手が作業のために離れるとふるえはまた始まり、触れられるとまた止まる。そんなことを繰り返すうちに、治療は終わったのでした。「先生は一番迷惑をかけられたのに、どこ吹く風と、ニコニコ笑って終了を告げた。助手の方にお礼を言うと、彼女はニコッと笑って、『気にしないでください。患者さんの中には、座っただけで震える人がたくさんいますから』と、まったく普段の調子」。

またあるとき、主人公は、古くて狭いエレベーターの中で一人の若者と居合わせます。狭い空間の中に二人きりになるのは、なんとなく気まずいものです。そんなときに限って、不意にふるえが始まり、持っていた新聞が「ガサガサ」と音をたて始めます。若者は目を見開き、まじまじとそれを見て、「アノー、なにもしないのに震えるのですか。」とおずおずと聞きます。主人公は咄嗟に「アッ、コレ、これは丁度、薬が切れたとこなんだ」と答えます(パーキンソン病には、ふるえなどの症状を緩和する薬がありますが、一定の時間内でのみ効果を発揮します)。すると、若者の顔はこわばり、クルッと背中を向けて、早くこの「麻薬中毒患者」から逃れたいという気配を全身から発します。おんぼろのエレベーターがやっと1階について扉が開くや否や、若者は「カールルイスもかくやのスタートダッシュで」走り去ります。

さて、これら三つのエピソードに含まれる滑稽の認識上の貢献は、どこにあると考えられるでしょうか。

まず、一つの重要なポイントは、これらのエピソードにおける滑稽さは、いずれも主人公が症状を怖れる深刻さに関係している点にあります。手が意思に反してふるえることは、みっともなく、他人に迷惑をかける、憂うべきことだ――これは、主人公にとって(おそらく彼だけでなく一般的に)疑い得ない「現実」だと考えられます。

それに対して、この物語においては、別の「現実」が侵入してきて、その疑い得なさを宙吊りにしています。最初の集会でのエピソードの場合、ショックと落ち込みで主人公の頭はいっぱいのはずなのに、美しい女性をみただけでその深刻さはあっさり足元をすくわれます(きわめて温和な性的経験の侵入)。次の歯のエピソードでは、医師と助手は、主人公のふるえをまったく別の「現実」(歯の治療が恐くてふるえている)として知覚していたことが明らかになります。最後のエレベーターのエピソードには、過剰にふるえを恐がる若者を可笑しがるうちに、読者の視点は若者を離れ、むしろ「そんなに恐がらなくてもいいのに」という別の見方へと引き寄せられる、という仕掛けが備わっています。

このように、それぞれ異なった仕方ではあれ、すべてのエピソードにおいて、滑稽さは、病いの症状は憂うべきもので、その人を覆いつくすほどの重大で深刻なものなのだ、という「現実」の疑い得なさに対して、「ひょっとすると、そうではない現実もあるのかもしれない」という相対化をもたらす、と考えられるのです。

そうはいっても、次のような疑問が生じるでしょう。それは、一瞬の気休めではないか。滑稽が一服の清涼剤にはなったとしても、その後には、またどうしようもなく重い現実(小池さんの物語の場合、結局ふるえという症状は彼を苦しめ続けている)が人々を覆いつくすのではないか。この点に関するバーガーの考えは次の通りです。

もし神の存在を仮定しないならesti Deus non deratur、すべての滑稽なものは現実からの逃避である――それは生理学的にも、心理学的にも、社会学的にも健康な逃避であるが、逃避は逃避である。経験的実存の現実世界が最後にはまたかならず自己主張しはじめる。そのときには、滑稽なものという反経験的世界はかならず幻想に見えてくるはずだ。喜劇は根源的に反事実的であり、悲劇は人間の条件の牢固たる事実を明らかにする。だが、こうしたことのすべてが信仰の光のもとで――つまり神ありとしてesti Deus non deratur――知覚される瞬間、現実と幻想の権利主張が逆転する。いまや、経験的世界の牢固たる事実こそ、幻想とは言わないまでも、最後には無に帰するつかの間の現実と見られるようになるのだ。(『癒しとしての笑い』、363ページ)

滑稽な世界は、確かに、すぐに重い現実(「経験的実存の現実世界」「経験的世界の牢固たる事実」)に凌駕されてしまうかもしれない。しかし、「神」の存在を前提にするならば、実はどうしようもなく重い現実の方こそ「最後には無に帰するつかの間の現実」なのかもしれない。このようにバーガーは言っています。これは、別の言い方をすれば、滑稽など一瞬の気休めでしかないという見方を飛び越えてしまうには、有無を言わさずそうさせる根拠となる存在(「神」)を共有していることが必要だ、ということでもあります。

病いを持つ人同士がコミュニケートするとき、そこでは、上述のような存在が共有されているとは限りません(むしろ、されていないことの方が多いでしょう)。ただし、滑稽な世界を笑いによって承認し共有することには、たとえそれが一瞬の気休めにすぎないとしても、滑稽な笑いを一つ二つと積み重ねることによって、重い現実だけではない別の現実が一定の存在感を得られるかもしれないことを「信じる」、という部分が含まれているように思います。このように考えると、病いに関するユーモア感覚は、「神」のような明確な存在に言及しないけれども、非常に弱い形での一種の「信仰」といえるかもしれません。

最初に小池さんの文章を読んだときには、「面白い人もいるものだ」というぐらいにしか思っていませんでした。しかし、あるときこのバーガーの一冊と結びつけて考えられるようになったとき、病いのユーモアが、自分が思っていた以上に奥深いテーマを含んでいることに気づいたわけです。

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