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『南方熊楠日記2(1897‐1904)』南方熊楠(八坂書房)

南方熊楠日記2(1897‐1904)

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毎日、とても長い距離を歩いた。お金がなかったせいだ。キュー植物園からアールズ・コートまで、或いはノッチンガムヒルから大英博物館、翌日はバタシーからブルームズベリーへと。ほとんどの場合、深夜遅く、へべれけに酔いながら。わたしも試しに同じルートを歩いてみたことがあるが、相当の距離であって、この健脚ぶりこそが、後年、熊野山中を駆け巡った”てんぎゃん”(彼地の方言で天狗の意)の面目躍如たるところだ。

語学が堪能であったためか、あるいは生来の気質からか、異国の困窮の生活にあっても、愚痴や弱音を吐いたりしなかった。学問をたてるため、必死で酒を飲み、必死で勉強した。東洋人であり、その上、「乞食もあきるるようななりをして」(南方熊楠コレクション〈第4巻〉「動と不動のコスモロジー」収載<履歴書>より)いたので、ロンドンの街角で差別的な扱いを受けることもあったようだ。そんな際には大立ち回りを振るった(「ピカジリーで人を打つ」)。そんな癖が災いして、折角臨時雇いの口を貰っていた大英博物館での職をフイにしてしまう。

一流科学雑誌「ネイチャー」への寄稿が掲載される快挙もあった。当時、欧州では東洋に対する興味はその絶頂にあり、話題が東洋関連となれば五歳にして和漢三才図会を筆写した南方の博識がおおいに発揮された。実際のところ、西洋人による東洋文献の解釈は往々にして誤解誤読を含んでいたので、そうした論文を論駁すべく投稿した。おおいに溜飲がさがったことだろう。数多くの著者へ直接、手紙を書いた。南方によればSからZの欠けた「損じたる字書をもって」(前出同書)「ネイチャー」誌への初稿<東洋の星座>を書いたとあるが、それはこの人物得意の誇張であるとみる。「かれ(南方)の英文著作はきわめて慎重で、隙がなく、文章もまたすこぶる行儀の良いものである」(<南方熊楠の英文著作>「南方熊楠全集第10巻」、岩村忍平凡社)。内容の正しさと説得力を持っており<ノーツ・アンド・クエリーズ>などの素人投稿雑誌にも精力的に投稿し、内輪で少しは名も知れる存在になってきた。

西洋人の鼻をあかすことを多少とも喜びとしていたように思う。それが証拠に南方のもとに孫文が尋ねてきた際、一生の所期はと問われ、「東洋から西洋人を駆逐すること也」と答えた。さすがの革命家も面色を失くしたという。

(林 茂)


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