『リハビリの夜』熊谷晋一郎(医学書院)
「意識と身体のままならなさが、敗北の官能を呼び込む」
脳性麻痺とは何か。さまざまな本が書かれてきた。当事者、家族、専門家・・・。マイノリティのなかのマイノリティといえる脳性マヒ者たちは語られつくされている。そう思っていたが、この障害者の世界は深い。また、新しい書き手が登場した。
熊谷は、脳性麻痺の当事者であり、東京大学医学部卒業後に小児科医になった。不可能を可能にした男だ。
熊谷には楽観的な視座がある。悲壮感はあったのだろうが、とうにくぐり抜けたのだろう。あっけらかんとしている。自分自身の身体にまつわる官能、便意、性欲などを楽しげに語ってくれる。
身体はやはりいまだに書かれざる未踏の部分がある。身体はひとりひとり異なる。故に、物語の多様性は担保される。
本書を読んでわかったことは、熊谷という青年が、脳そのもので、自分の身体を観察していることだ。不随意運動という、自分の意識で思い通りにならない身体感覚を飼い慣らすための工夫をするとき、熊谷は自分の意識をコントロールする。その意識に反する行動を勝手にする、自分の身体を把握する。その把握の手触りを言葉にできている。普通ではない筆力だ。
脳と身体との、ままならないコミュニケーションの実相が、本書によって明らかにされている。
興味深いのは、脳性マヒ者の身体運動が、「他者からのまなざし」「まなざされる自分自身」という関係性の中で、緊張したり、弛緩したりしていくことだ。これは、健常な身体をもった人間にはない感覚なのだが、読むことで理解できる。この理解させるだけの筆力がある。尋常でとはない文才だ。自己の身体意識を、他者に言葉で伝達することに成功することはたいへんな困難だからである。
「敗北の官能」という表現がすばらしかった。便意を催して、自力でトイレに挑む。トイレは彼の身体を拒絶し、彼は大腸が勝手に動くことを防ぐことができない。床の上に転がりながら彼は「敗北の官能」を味わうのである。
障害者の不自由さを嘆くわけではない。思うように動かない身体に、脳が敗北することで、味わえる快感というのがある。これは脳によってすべてを支配したいという私たちの身体感覚とは別の感覚である。その感覚は、老いる、という万人が経験する場面で、私たちも必ず味わう。否。乳児のときにはその体験をしているのだ。ただ忘れているだけなのだ。
このままならない心身を障害者の人たちは先取りしている。脳も身体もままならない。そのままならないことは自然なことであるはずなのに、異常、逸脱ととらえてしまうのが私たちなのだ。熊谷の身体を鏡像にして、私たちのままならない心身が浮かび上がってくる。
ゆえに普遍的な書物となっている。傑作である。