『街場のメディア論』内田樹(光文社)
「まだ見ぬ読者に届けたい言葉はあるのか?と問う」
「教育=贈与論」が内田氏の思考の軸である。これを、「メディア=社会教育=贈与論」という枠組みで語ったのが本書である。
内田氏が勤務先の神戸女学院で語った講義記録のテープ起こしをもとにつくられている。受講した生徒は大学2年生。19か20歳である。だから読みやすい。
まずキャリア論が語られる。大学の専攻と、就職先での仕事内容が一致しなくてもいいではないか。いまはキャリア論がもてはやされているが、昔はそんなことはなかった。「石の上にも3年」で耐えながら仕事を覚えていったのだ、という高齢者の繰り言のような言葉がでてくる。
自分は育児に向いていないと思っていたが、子供が生まれると、可愛くして仕方がなくなり、自分のなかにこんなに父性愛があるなんて思わなかった。やはり親バカの話が枕になっている。
メディア論とは関係ない導入のように思えるが、私はこの仕事と育児の記述を読んで、今回の内田さんの言葉は信用できると感じた。
子供が全存在で、かわいがって、保護して、と親に依存をしてくる。そのゆだねる存在をみて親は行動する。オムツを替えたり、食事を与えていく。その日常の行為をしていくうちに、親になる。愛情が生まれる。
会社の仕事も同じである。組織にはいると、自分の適性と関係のない業務が割り振られる。違和感はあるが、頼りにされているという実感が仕事を継続する力になっていく。
こういう日常の感覚とメディア論とどうつながるのか。
内田さんは見事につなげてくれる。
それが贈与論。教育者としての内田氏のロジックはいつも変わることがない。無償の愛を与えることで、与えられた側の内面が変容して、行動に変わっていく。人間は信じるに値するという語りである。
神戸女子大学という若い女性に向かって日常的に語っているためだろう。小難しい知性をかみ砕くのが絶妙にうまい。
メディアビジネスがいま崩壊して、過渡期にあることは、よく知られている。僕の書評でも幾度も触れてきた。
このメディア産業の崩壊の理由の一つとして、内田氏は、「最終的な責任を引き受ける生身の人間がいない」「自立した個人による制御が及んでいない」ことをあげる。この帰結として、産業が内部から瓦解しようとしているというのだ。
深く同意する。売れるために、書籍の質を「バカ」に設定する。という仕事をしなければならない。そう思っている書き手も編集者もいる。そういう努力をしても、バカは書籍を読まないので、売れなくなったのが現在の出版不況である。
日本の新聞ジャーナリズムの特徴は主語がない文章だ。あったとしてもその主語は「みんな」「日本国民は」「地域は」というような抽象的で無責任な主体。会社員の記者たちは「私は」という主語で書けない。「私は」という主語で書きたいことがあったとしても、メディアビジネスの構造にある労働者たちは、「私見」を表明することが禁じられている。
そのなかでインターネットが普及し、ブログで「私見」を披瀝する者たちが出現した。初めはその動きを矮小なものと軽視していた「メディアのプロ」たちも、彼らのメディア批判の的確さに存在基盤が揺らぐ。
僕はいま新聞の論説を読まない。そこには主語がなく、私見がなく、それゆえに卓見がないことを知ってしまったからだ。
言論とは命がけのメッセージである。その言葉の発信者と革命ができるか。という挑発的なメッセージも書いてある。それでは日常生活とは離れてしまう。これらはトピックであって内田氏が伝えたい本質ではない。
内田氏は人間が成長することへの信頼を揺るぎなく語っている。そして読者を消費者としてみなすプロのメディア人を批判する。
子どもたちは、対価を払うことなく、文字を読むことから書籍に親しむ。親に本を買い与えられる。それがものを読むスタートになる。図書館という公共の場にある書籍を無料で読む。
読書体験は他律的であり、無料体験から始まる。
自分の稼ぎで書籍を購入するという「読者」になるまで20年以上の歳月がかかるのである。
既存の出版ビジネスは、そのことを忘れて目先の売り上げをたてるために、ベストセラーを狙っている。しかし、書籍を愛している人からすると、内容が薄い書籍の粗製濫造である。ネット時代になって、その薄い書籍が量産される出版ビジネスの構造は、よき読み手たちに熟知されてい
る。買う必要なし! という書籍ばかりがあふれていく。
二児の父親になった僕も、子供にすすめる書籍は古典か名作からすすめるつもりだ。1年後、消えている書籍を読ませない。
仕事を習得するプロセスも似ている。他律的に業務を割り振られて、型にはまっていくなかで仕事を学ぶ。はじめからやりがいはない。やりがいは、仕事仲間や顧客の感謝の言葉という他者からもたらされる。
私たちは、贈与されることによって、モチベーションをあげて行動するように社会化されている存在なのである。
「本を書くのは読者に贈り物をすることである」
「贈与と、それに対する感謝の気持ち」
これが書籍というパッケージに込められた、言葉の役割である。と内田氏は説く。
込み入った議論は、本文を読んでいただくとして、読書体験の醍醐味は、「この著者が書いていることは、自分のことだ」という感覚。このギフトを受け取った感覚が読書の快楽である。
それは、書き手の献身的な文筆活動によってできあがる。
書き手と編集者はどれだけ献身的に、その言葉を伝えたいと渇望しているのだろうか?
自問自答しながら、僕は田舎道を新書片手に歩いている。