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『哲学の起源』柄谷行人(岩波書店)

哲学の起源

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「イソノミアの再発見」

 本書では、ハンナ・アーレントの革命論、なかんずく「イソノミア」論が取りあげられている。アーレントに入れあげてきた私のような者にとって、その哲学者の中心問題に、著名な批評家が注目してくれるのは、喜ばしいことだ。

 売れ筋の本を紹介するのは本欄の趣旨にそわないが、「哲学の起源」というタイトルを掲げて古代哲学史の書き換えを迫る著者の挑発につい乗せられて、やぶへび覚悟で応答するのであれば、それはそれで構わないだろう。古代哲学や政治思想史の専門研究者には慎重居士が多いので、専門分野に殴り込みをされてもはかばかしい反応は期待できない。本書に飛びつくのは、生半可なアーレント読みにふさわしい役回りというものだろう。

 先日行なわれた2013年度センター入試の科目「倫理」に、アーレントの用語法についての出題があった。『人間の条件』がつまみ食い的に引用され、そこで語られている「活動」の具体例として適当な行動を、四つの中から選べというものであった。必死で働くこと(労働)とも、物を作ること(仕事)とも異なる、人々と共に事を為すことを、アーレントは「活動」と呼んで区別した。私自身はこの区分けを重んずる者だが、そういう肯定派はむしろ少数で、「活動」概念の妥当性については、依然として異論が多い。このような係争中のトピックを入試問題として出す出題者の意図が、私には理解できない。

 その入試問題を見たときに感じた違和感と似たものを、つまり、それはないだろうとの思いを、本書を読んで感じた。アーレントによるイソノミアの特徴づけがろくすっぽ理解されないまま、柄谷式のバイアスのかかった「イソノミア」という言葉だけが巷に流布しそうなのは、困ったものだ。だがそれを言うなら、アーレントの立論の重要性を一般に認知させてこなかった研究者の側の怠慢こそ、まずもって責められるべきであろう。

 だとすれば、この絶好の機会に、あらためてこう問うてみよう。アーレント古代ギリシアから引き出した「イソノミア」とは何であったのか、と。それを踏まえてこそ、柄谷のイソノミア解釈の特異性も浮き彫りとなるにちがいない。

 イソノミアとは、「イソン(等しい)」と「ノモス(習わし・法)」の合成語である。「法的平等」という訳もありうるが、強い意味での「法」の含意は、この語にはない。むしろ、この場合の「ノモス」とは、「ピュシス(自然)」と対比される「人為」という意味に解される。人間は生まれつき、つまり自然的には平等ではない、とする考え方が根底にあり、だからこそ、自然的ばらつきとは別に、あくまで人間間の約束事として、お互い対等な政治的主体と見なし合おう、との取り決めが交わされる。そういう合意のもとに形成された同等の者たちの共同体の形態が、「イソノミア」と呼ばれる。見られるとおり、この発想は、人間はみな平等だとする近代の公理とはおよそ異なっている。

 もとより、人間同士には、容姿、能力、財産など私的境遇の点で、埋めがたい不均等がある。だが、同じ共同体のメンバーとしては、一人一人が同等の資格で参加してよいのであり、そうであってこそ、共同体への各自の帰属意識も強められ、その結果、共同体全体の士気も高まる。一握りのオーナーが専断するよりも、全員が共同参画者として横並びで競い合ったほうが、盛り上がる。なるほど、各人がしのぎを削って自己を主張し合う分、面倒なことが生ずるし、非効率にも見えるが、長い目で見れば一番うまくいく。大小さまざまな団体に関して当てはまる、この組織活性化の秘訣を、国家共同体の構成原理として採用するのが、政治形態としてのイソノミアなのである。

 それゆえ私は、この語を「対等制度」と直訳することにしている。

 柄谷がイソノミアを、「民主政(デーモクラティア)」と対比させ、古代に出現した卓越した政治形態として際立たせているのは、正当だし、本書の価値もそこにある。「民衆」の「支配」という意のいささか刺激の強い言葉と比べて、フェアプレイの競技精神を体現する「対等制度」は、ヘロドトスからプラトンまで麗しい言葉とされた。とはいえ、古代民主政と近代民主主義とを一緒くたにするようなことがあってはならないが。

 柄谷がイソノミアを「無支配」と訳しているのも、理解できる。柄谷の引用する『革命について』の箇所でアーレントも、「無支配(ノー・ルール)」というイソノミアの第一義を強調している。だが、「無支配」という消極的規定だけでは、イソノミアの本義は明らかとならない。では、「支配からの自由」は、積極的には何を意味するのか。

 柄谷はここで、貧富の格差のなさ、つまり経済的平等という論点を持ち出す。古代ギリシアイオニア植民都市では当初、入植者たちが拘束や特権のない盟約共同体を創設し、「人々は実際に経済的にも平等であった」(25頁)。「イオニアの諸都市がどのようなものであったかを示す史料はほとんどない」(42頁)にもかかわらず、こう大胆に決めつけることの当否は措くとして、少なくとも、イソノミアを経済的平等に帰着させる議論には、賛成しかねる。柄谷は、デモクラシーと区別されるイソノミア概念を発見した唯一の論者が、アーレントだということを認めている(24頁)。にもかかわらず、政治体制を論ずるさいに経済的平等という近代的観念を尺度として持ち込むことにアーレントが異を唱えたことのほうは、いともあっさり無視するのである。

 柄谷は、そもそも、マルクス唯物史観における「生産様式」への定位に代えて、「交換様式」の違いから社会構成体の歴史を見てとろうとする。そのうえで、自身の「世界共和国」なるキャッチフレーズに見合う、しかも普遍宗教ならざる理想の「交換様式」を求めて、これをイオニアにおける自由と平等の両立の痕跡に見出すのである。

 柄谷の見出した「どこにもない国(ユートピア)」は、いかなる射程を秘めているのか。その実測は他の論者に任せよう。ソクラテス以前の哲学史観の見直しについても措く。私としては、潤色されたイソノミア概念のゆくえがどうも気になる。古代の築かれた対等制度の意味次元を掘り起こそうとするアーレントの試みを、自分に都合よくねじ曲げ、そのおいしいところだけつまみ食いするのを、看過するわけにはいかない。

 古代ギリシアの風景を一新するかに見える本書は、そのじつ、現代人にありがちな偏見に覆われている。政治的平等を「たんに抽象的な平等性」(27頁)と見なし、経済的平等を重んじる発想からしてそうだが、それと並んで目につくのは、「アテネのデモクラシー」を、それが奴隷制に依拠していることを楯にとって断罪したがる、お決まりの論調である。労働や仕事を、市民にふさわしくないと蔑視した、活動本位のポリス的身分秩序が許せないのも、生産性に重きを置く近代人の品質証明であろう。現代の論者から見て、「労働/仕事/活動」というアーレント的三区分は、ナンセンスに映るのがふつうである。

 本書の後半では、アテネ「帝国」が、これまた当世ふうに告発される一方、幾度もソクラテスの名が呼ばれる。ポリスを超える「コスモポリス」の哲学者ソクラテス。その取り柄は、公的なものと私的なものの区別を撤廃しようとした点にあるのだという。公私の別という、近代社会にとっての恰好の標的が、ここでも狙い撃ちされる。その無差別化が進めば進むほど、「政治的なもの」はかき消されてゆく。

 「ソクラテスが目指したのは、統治そのものの廃棄であり、イソノミア(無支配)である」(213頁)。マルクス主義者なら「国家の廃絶」を理想とするのかもしれないが、おのれのポリスを愛した古代の市民哲学者に、その好みを押しつけるわけにはいかない。なるほど、「「ソクラテス以前」というのであれば、ソクラテスその人をそこに含めるのでなければならない」(217頁)とする主張は正しい。しかしだからといって、ソクラテスをポリス嫌いの近代人に含めてよいということにはならない。

 イソノミアとは「無支配」、つまり支配することにも支配されることにも重きを置かない政治体制である。とりわけ、支配することを好まない点に特徴がある。誰かに支配されることは願い下げだ、と思う人は多い。支配されるのは隷属すること、すなわち自由の否定だからである。これに対して、その逆の、誰かを支配することのほうは、悪い気はしないというか、望ましいと思う人もいる。しかしながら、支配するとは、対等な関係で張り合う可能性を奪われることでもあり、それを面白くないと感ずるタイプの人間もいる。イソノミアとは、そのように、支配されることと同じく、支配することもよしとしない、自由を愛する者たちが共同で築く、対等な遊動空間のことなのである。

 イソノミアをイソノミアたらしめるのは、公共の事柄に同等に参加し合う自由であり、それを通じておのれの存在を現わし合うことの喜びである。この場合の「自由」とは、貧富の格差の解消でも拘束からの解放でもなく、人々と共に事を為し「新しく始めること」においてはじめて明け開かれる「透き間」のことを意味する。

 複数性において輝き現われる自由の経験。そうした経験地平が古代に発見されたことを、イソノミアという古語は伝えている。この公的自由は、ユートピアなどではなく、近代において革命精神が地上に姿を現わすたびに、そのつど再発見されてきた。その語り部たろうとしたのがアーレントであった。イソノミアの光芒に、われわれは幾度も思いを馳せる必要がある。その追想の機会にふたたび恵まれたことを、あらためて喜ばしく思う。


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