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『生きていてもいいかしら日記』北大路公子(PHP研究所)

生きていてもいいかしら日記

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 皆さんは寝る前にどんな本を読みますか。私は結構悩みます。東野圭吾のミステリーでは面白すぎて目がさえてしまうし、かといって怪談実話に手を伸ばそうものなら天井の染みが気になってつい電気をつけてしまいそう。読むと全身の力が抜けて、ほどよく笑えて、すっと眠りに入れる。そんな本をチョイスするのはなかなかに難しいのです。私はそんな本を「睡眠導入本」と読んで何冊かストックしているのですが、このたび新たに一冊が加わりました。それが『生きていてもいいかしら日記』です。

 著者の北大路公子さんは北海道に住んでいます。この日記は彼女が昼間の回転寿司で酒を飲んでいるところから始まります。隣に座った見知らぬじいさんに年齢や職業を聞かれて公子さんは「四十過ぎて独身で親と暮らして仕事はしているようなしていないような。趣味昼酒。てへ」と答えます。ここまででわずか一ページ。頭骨がぐにゃりと柔らかくなる音が聴こえたような気がしました。

 昼間から回転寿司で酒飲むって。どういうことでしょう。しかも回転寿司行ってるのはこの回だけじゃないのです。公子さんはこの日記の最初から最後まで回転寿司ばっかり行っているのです。回転寿司って昼間から酒飲むところだったですか。そんなことを考えているうちに全身から力が抜けていき、恍惚となって、いつの間にか深く寝入っていました。

 次の日の夜。布団に入った私は吸い寄せられるようにこの本に手を伸ばしました。公子さんの乳出し事件。公子さんのパンツずりさげ事件。公子さんの肉に関する考察。脳髄が流れだしそうな日記を笑いながらすいすいと三篇、計九ページも読み進めました。

 問題なのは次の一篇です。お相撲さんの「余力」について考察していた公子さんは、母親が大事にしている花器を割ってしまい、しかもそれを押入れに隠しており、とても困っていることを告白します。四十過ぎた大人が割った花器を押入れに隠しているって。「ぜ、全身から汗が噴き出た」とか言ってる場合じゃない。場合じゃないよ。と思っているうちに睡魔が襲ってきて昏睡状態に。

 これほど人の心を弛緩させる本があるでしょうか。

 先の見えない時代です。経営者だって会社員だって公務員だって明日どうなるかわかりません。成果が出せない人間や、ミスをした人間はクズのように扱われます。ある日会社に行ってみたら机がなかったり、ネットに名前をさらされて袋叩きになったり、YouTube丸刈りになった姿を公開したりする羽目になるのです。バトルロワイヤルです。疲れて帰り、ベッドに入っても、破綻、失業、貧困、孤立、無縁死、そんな言葉が頭を駆け巡って、不安の暴走が止まりません。

 あまのにゅう。

 ……それは泥酔した公子さんが友人に書きかけたメールの文面。本人すら意味がわからない謎の言葉。あまのにゅう。どういう意味でしょうか。公子さんは懸命に思い出そうとします。頭の中に「あまのにゅう」が侵入してきます。失業。あまのにゅう。貧困。あまのにゅう。孤立。あまのにゅう。無縁死。あまのにゅう。あまのにゅう。あまのにゅう。あまの

 いつの間にか手から本が転がり落ちていました。

 数ページで恍惚の人となる恐ろしい日記。最後まで読み進められるか不安でしたが、きっちり二週間で読み終わりました。それと同時に私の不眠も治りました。ありがとう公子さん。私の夜に深いレム睡眠をありがとう。タイトルの「生きていてもいいかしら」という問いに全力で答えたいです。生きていてください。そして私の意識をぐにゃぐにゃさせ続けてください。

※ぐにゃぐにゃしたまま書きましたのでこんな文章になりました。おすすめです。


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