『アメリカ人であるとはどういうことか 』M.ウォルツァー(ミネルヴァ書房)
「共同体形成の稀有な実験」
アメリカという国はユニークな国だ。訳者は一組ずつの動物を選びだして乗せたノアの箱船をイメージしているが、アメリカに移民として訪れた人は、だれもが希望してもとのアイデンティティを放棄して、アメリカ市民となることを選んだという意味では、箱船というよりも、たとえば地球を離れて別の惑星に移住する宇宙船のようなイメージがふさわしいだろう。あるいは最近話題のアメリカのテレビ・ドラマ「ロスト」のように、大海の孤島に落下して航空機の乗客の生存者たちのように、運命によってランダムに「選ばれた」人々の共同体も別の意味でアメリカに近いかもしれない。
宇宙船であれば、同じ船に乗り込んだという共通の意志のもとで一つの共同体が形成される。離島であれば、同じ航空機の乗員であったという運命によって、ゆるやかでも一つの共同体が新たに形成されることになる。国家がこうした共通の意志のもとで形成されるという実験が試みられた稀有の実例、しかも巨大な実例がアメリカ合衆国なのだ。
この共同体の特徴は、誰もが異なる背景をそなえていて、その背景を忘れることができないということだ。そのため共同体の一員であるという特徴のほかに、その背景としての特徴が色濃く残ることになる。共通に話す言葉が一つあるとしても、仲間どうしのうちでは元の言葉で話すに違いないし、やがて生まれてくる子供にも、その言葉を教えるかもしれない。
だからこの共同体の成員はアイデンティティが二重にあることになる。日本系-市民、アメリカ系-市民、フランス系-市民などが群れて集団を作り、その集団がそれぞれにみずからに固有の利害を追求しながら、同時に共同体の一員としてのアイデンティティと利害を維持することになる。これは最初から生まれてきた国の中で「自然に」暮らしてきた状態とは違って、きわめて人為的な紐帯を作りだすことになる。
もちろんどんな民族国家においても、自然な市民というものは幻想にすぎないし、一つの国家の中には複数の集団が存在しているものだ。それでも歴史的な経緯のために、一つの国家を形成することがある程度「自然に」思われてきたために統合が維持されていることが多い。あるいは複数の集団の遠心分離的な力で国家の統合が解体されないように、上から強大な権力が支配していることもある。
権力的に国民国家を統合する紐帯が何らかの理由でほどかれると、厳しい対立が露出することになる。強力な指導者が国を統合していたユーゴスラビアは最小部分にまで分解し、その過程はおしとどめることができなかった。ブッシュがフセインという紐帯を断ち切ったイラクでは、シーア派とスンニ派の対立で内乱状態となり、クルド民族の地域は、クルド人が完全に制圧していて、「国境」で厳しいチェックが行われているという。「多民族国家がまとまっているのは、主要には、力によって」(p.92)なのであり、著者はこの解体のプロセスは基本的におしとどめることができないものだと考えている。その意味では多民族国家は権利が国民を強制する「帝国」としてしか統合できないことになる。
しかし例外となるのがアメリカである。アメリカは「帝国」であることができないように作られている国なのだ。移住して五年が経過すれば、移民は帰化を認められ、選挙権を所有するようになる。だれもがかつての移民として、それぞれの文化的な背景をもちながら、相手の背景も尊重することを求められる。ハイフンの左と右、日本系としての出自と、アメリカ人という現状の両方において、アイデンティティのせめぎあいのうちで生きることを求められるのだ。
そのための制度的な枠組みとして作られたのが「国家と政府の制度的設計図」であるアメリカ憲法の本文と、「国家の活動を将来にわたって制限するために」、憲法の修正条項として追加された「権利の章典」である(pp.173-175)。国家が機能すべき制度を定めた部分と、国家に立ち入りを禁じる「社会」の部分を定めた部分である。建国の直後に、E Pluribus Unum(一ドル札のアメリカ合衆国国璽、p.42)として。「多から一を」という理念を示した部分と、その後の経緯のうちで、修正条項として、個人の私的な生を保護するための部分でできているわけだ。
興味深いことは、個人のプライベートな権利を守るために定められた権利の章典が、たんに国家の介入を拒むだけでなく、公民権運動やアファーマティブ・アクションのように、国家からの直接の介入を求めるためにも使われてきたということである。市民たちが公的な(シビック)徳を追求することで、他者の生活に国家を通じて介入するようになり、市民的礼節(シビリティ)とそぐわなくなることもあるのである。
著者は「今日のアメリカ人は、かつてのアメリカ人と比べるとより市民的(シビィル)であるが、公民的な徳(シビック)には欠けている」(p.154)と指摘している。そしてカリスマ的な指導者が、「何らかの危機に立ち向かうべき国民を集結させたりするという光景」は想像しにくいと語っている。これを一変させたのが、九・一一のテロとその後のブッシュの政治だった(これらの文章は九・一一以前のものであり、日本語版の序文でウォルツァーは「ブッシュがカリスマ的な人物ではない」ことを喜んでいる)。
アメリカはこの公的な生と私的な生の間の緊張、アイデンティティの分裂のもたらす緊張にさらされつづけ、変化しつづけている。少し古くなった文章ではあるが、ぼくたちには自然と思えることが自然でない人為的な作りの国で生きるというどういうものなのかを考えさせてくれる書である。この国の行方は、この地球という船の行方に決定的な影響を及ぼしかねないのだ。
【書誌情報】
■ アメリカ人であるとはどういうことか : 歴史的自己省察の試み
■M.ウォルツァー著
■古茂田宏訳
■2006.1
■230p ; 20cm
■原タイトル: What it means to be an American.
□序論 差異の政治に向けて
□第一論文 「アメリカ人」であるとはどういうことか
□第二論文 多元主義
□第三論文 現代アメリカにおける市民的礼節と公民的な徳
■ISBN 4-623-04530-7
■定価 3200円