『ペール・ギュント』ヘンリック・イプセン[作]/毛利三彌[訳](論創社)
「劇評家の作業日誌(21)」
演劇や文学にあまり知識がなくとも、イプセンの名前を知らない日本人は、きわめて少ないだろう。イプセンはチェーホフと並んで、シェイクスピアの次に日本に翻訳された劇作家であり、明治以降の歴史の教科書に必ず登場する著名な芸術家だ。だがイプセンの作品を読んだ者がいるかと言うと、これはたいそう疑わしい。仮に名前を知っていたにせよ、その大半は『人形の家』の作者としてのイプセンだろう。
イプセンが日本に紹介された時、彼の登場は「近代市民の成立」とともにあった。とりわけ「女性解放」のシンボルであったことは、その後の彼のイメージを決定づけた。いわば新しい時代や社会を牽引する進歩的な思想の代名詞だったのである。今からちょうど100年前の1906年、イプセンは没した。つまり、今年は偉大なイプセンの「没後100年」に当たる。
演劇史の文脈で言えば、イプセンは「近代最初の『劇作家』」ということになる。演劇史の区分に「イプセン以前」「イプセン以後」という分類が使われたこともあったが、それほど彼の存在は大きかった。彼はシェイクスピアやモリエ-ルら一座を率いる現場の劇場人と違って「書斎派」であり、文学者としての最初の「劇作家」だったのだ。
『人形の家』(1879)や『人民の敵』(82)、『ヘッダ・ガブラー』(90)などで知られるイプセンは、近代市民の悲劇を描いた。つまり現実社会を身も蓋もなく暴きだすリアリズム作家ということだ。だがリアリズム以前のイプセンには、叙事詩的な劇世界も存在した。それが今回取り上げる『ペール・ギュント』である。もっともこの作品は、グリークのあまりにも有名な楽曲によって知られ、原作がイプセンであることを知っている人の方が少ないだろう。毛利三彌訳『ペール・ギュント』は、「ファンタジー・コレクション」の中に収められているが、リアリズム作家のイプセンとは別の側面が見えてくるだろう。そこで今回は、古典中の古典を今どう読むかについて、私見を中心に書いてみたい。
この戯曲が成立したのは1866年、だが初演は10年後の76年になっている。作者自身も、この戯曲は「どうせ上演されないからね」と言っているほど、上演を前提していなかった。そもそも五幕の長大な戯曲は、上演するためというより、読むための劇詩に近かった。だが100年経って、リアリズム演劇が衰退してから『ペール・ギュント』は野心的な演出家による上演が相次ぎ、20世紀末になって、いよいよ人気が高まった。パトリス・シェローやペーター・シュタイン、そして日本でも蜷川幸雄の上演などが続いた。
『ペール・ギュント』の近代演劇に収まりきらない「現代的側面」を拾いだしてみると、以下のような点が指摘できる。
一つは、ノルウェーに伝わる民話や伝説、お伽話など、中世のフォークロアに多くの素材を得ている説話的な背景である。主人公のペールは空間的・時間的に遍歴するホメロス以来の伝統の継承者だ。ただしペールの世界の旅は「まわり道」というテーマに変奏される。最終的に初恋のソールヴェイのもとに帰還するペールの結末は、それを象徴している。
二つめは、全編を通じて一種の「自分探し」という今日的な主題を奏でていることだ。冒頭でペールは、母親に「この嘘つきめ!」と一喝される「演技人間」として登場する。この嘘言癖は、彼を自分以外の何者かに仮装させ、演技を通して「自分探し」を敢行する。その意味では哲学的であり、自己言及的なものになっている。
三つめは、眠りと夢が頻出することである。夢のなかで彼は現実とも幻想ともつかぬ不思議な旅に出る。夢や無意識、精神分析は20世紀が発明した人間科学であり、半世紀後にシュルレアリストらが好んで夢の研究をしたことはこの戯曲の先駆性を示している。
ところで、わたしが『ペール・ギュント』でもっとも興味をそそられるシーンは第四幕の冒頭部である。以下、引用してみよう。
--あなたはノルウェー人ですね?
ペール
生まれはそう。
しかし育ちはコスモポリタン。
わが輩の生活は世界各国の恩恵を受けている。
アメリカからは資本主義
ドイツからは観念論
フランスからはシックなモード
イギリスからはコモンセンス
ユダヤ人の吝嗇
イタリアからは甘い生活
そして何よりの恩恵は
スウェーデンの鉄のお陰 (58、60頁)
世界中を遍歴してきたペールは、アメリカ、ドイツ、フランス、イギリス、イタリア、スウェーデンからそれぞれ滋養物を獲得してきた。訳者も語っているように、これは上演台本用なので、セリフとしてかなり簡略化している。そこで原千代海訳(未来社)を対照してみると、こうなる。
--あなたはノルウェー人ですね?
ペール
さよう、生まれは!
だが、性質は世界の市民だ。
わが輩が享有した財産はアメリカに感謝しなくちゃならんからね。
豊富な蔵書の図書室はドイツの若い著作家たちに負うておる。
フランスからはしゃれた身形(ミナリ)、それに
行儀や精神(エスプリ)もちょっぴり得た、-
イギリスからは勤勉と鋭い感覚、何が自分の利益になるかの。
ユダヤ人には待つことを学んだね。
甘美なる無為(ドルチュ・ファル・ニエンテ)もちょっぴりイタリアから贈られた、-
そして一度は、はなはだ危険な曲がり角で、何とかそこを切り抜けようと
スウェーデンの鋼鉄に頼ったね。
セリフとしては毛利訳が簡潔でいっさいの無駄を省いたものであることがよく分かる。
ここで気になるのは、「世界(の)市民」、つまりコスモポリタン Cosmopolitan という言葉である。ヨーロッパや新大陸アメリカを旅し、そのもっとも良質な部分を“つぎはぎ”して出来た一個の人格がペールだとすれば、これは「近代人」そのものである。「世界市民」=コスモポリタンには19世紀的な国民国家の一員であるより、そこから脱出しようとする行動様式が企らまれている。だが実際、祖国ノルウェーを逐われるようにしてドイツやイタリアを遍歴したイプセンは、果たして汎世界性を標榜する「コスモポリタン」だったのだろうか。むしろ民族難民としての「ディアスポラ」 Diaspora に近かったのではないか。ここで両者の比較はきわめて今日的問題を招来するだろう。
コスモポリタンとは地域の固有性を超越し、世界のいかなる場所においても生息可能な普遍性としての「世界市民」である。彼は好んで世界中を旅し、いわば選びとった立場と言えよう。それに対してディアスポラは、ユダヤ人がそうであったように、少数民族の難民化であり、強いられた立場なのである。世界から切り棄てられ、帰属する場所がない弱者、差別された者、障がい者、同性愛者といったマイノリティがそれに当たる。とすれば、イプセンとは亡命を強いられたディアスポラに他ならなかったのではないか。
こうして『ペール・ギュント』という作品は、国際化や民族の移動が常態化した世界の現在を考えさせる戯曲となったのである。