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『ソフィストとは誰か?』納富信留(人文書院)

ソフィストとは誰か?

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「反哲学者、ソフィスト

ソフィストという呼び名は、軽蔑的に使われることが多い。ギリシアで誕生した頃からすでにそうだったようにもみえる。もともとは知者(ソフィステース)という褒め言葉であったはずなのに、ソクラテスプラトンの頃からすでに、真なる知を求める哲学者(フィロソフォス)とは異なる〈ぬえ〉のような存在として非難されてきたからだ。

そのためか、ソフィストをめぐる本格的な研究書は少ない。日本でも例外的に田中美知太郎の『ソフィスト』がある程度にすぎなかった。その意味でもソフィストについての本格的な研究書である本書の登場は喜ばしいものだった。アリストファネスの喜劇にもみられるように、古代のアテナイにおいてソクラテスはそもそもソフィストとして糾弾され、ソフィストとして処刑されたのであり、フィロソフォスとソフィストの違いは、それほど自明なものではないのである。

本書ではフィロソフォスとソフィストの違いが、哲学者によるソフィストの切り捨てという形で実行されたことにより、哲学史においてはソフィストの研究が最初から歪められてきたことが指摘されている。「私たちが受け継ぐ〈哲学史〉が、ソフィストを忘却してきた歴史であるとすると、それはソクラテスプラトンによる〈哲学〉の勝利ではなく、ソフィストたちが実質的に支配する歴史であったのかもしれない」(p.14)という視点は鋭い。

ニーチェ以来、そしてハイデガー以来、ソクラテス以前の哲学者たちにたいする注目は顕著なものであり、一つの思想的なスタンスを決める役割をはたしてきた。しかし「ソフィスト哲学史にどう位置づけるか」は、「ギリシア哲学史への一つの挑戦」(p.48)であるだけでなく、西洋の哲学史における一つの挑戦でもある。哲学者とは誰かは、ソフィストとは誰かという問いによって決定されてきたからである。

ここで哲学者とソフィストの違いを確認しておこう。それは「知と教育をどのように位置づけるか」(p.107)という「根本的な哲学問題への二つの相対立する方向」をさし示すものである。哲学者からみたソフィストとは、まず知の活動において収入をえて暮らす人々である。哲学者は「自由な交わりにおいて対話する」人々であるが、ソフィストとは「金銭をとって教育を授ける」(p.99)人々である(この観点からみると、現代において哲学を教える人はみなソフィストになる(笑))。

次にソフィストは「徳が言論によって教えられる」ことを標榜する人々であり、哲学者とは「徳の教育可能性を疑問とする」人々である。しかもソフィストはこの徳をアレテーのようなそのものに固有の価値とするのではなく、「知」として、その人の倫理的なありかたとは分離したものとして「教える」ことができると考えるのである。

このソフィストの教授という職業的な立場から、ソフィストたちは「言論の力による説得を目指す」人々となる。アテナイのポリスにおいては、私生活にいたるまで人々の監視の目がはりめぐらされており、誰もがいついかなるときにも裁判において被告となる可能性があった。そのために裁判での言論の術が重視されたのであり、ソフィストの活躍の場もそこにあったのである。しかし哲学者たちは、言論による説得の術ではなく、「言論を正しく使う」ことに配慮する人々とされたのだった。

次にソフィストたちは懐疑主義相対主義を標榜する。人間は万物の尺度なのである。ここからフュシスとノモスの対立という重要な概念が誕生するが、哲学者たちは真理が存在すること、しかも絶対的な真理が存在することを主張する。またこれとは対照的な側面でソフィストたちは、すべてのことを知りうると標榜するが、哲学者たちは自己の無知の認識を強調するのである。

ここで言論の果たす役割をめぐって、ソフィストと哲学者たちの対立の軸がふたつ登場する。一つの軸は、言論と真理の関係である。ソフィストが目指すのは、絶対な真理ではなく、真理のみかけのあるものを言論によって説得し、それで相手を納得させることである。しかし哲学者は絶対的な真理というものがあり、それを言論のうちで説得するのではなく、一つの生き方のうちでその真理に到達する方法を探求するのである。

この対立の軸は、一見すると哲学と修辞学(弁論術)の対立のようにみえる。これはプラトンの学校とイソクラテスの学校の対立でもある。西洋の歴史においては、哲学そのものよりも、キケロを通過して、修辞学の伝統が脈々と流れ、そこにフマニタスの伝統が形成される。いま考えられるほど哲学は主流であったのではないのである。

しかしソフィストはこの哲学と修辞学の対立とはもっと別のところに位置する。著者は本書の第二部で二人のソフィストの作品を翻訳し、紹介しているが、このテーマは最初のソフィストであるゴルギアスの作品の分析の主題となる。ゴルギアスはたんに真理らしきものを説得するための技術として修辞学の立場に立つわけではない。「真理と虚偽、本物と似而非物[にせもの]の区別や秩序を逆転させる言論」(p.172)を導入するのである。

「虚偽を説得するのも抗い難い力であるとすると、それがそのまま〈真理〉となる。いや、虚偽こそがもっとも強力な真理なのかもしれない」のであり、「真理/虚偽」の区別を「妖しくなし崩す」(ibid.)のである。ゴルギアスの言論は、そしてその「遊び」や「笑い」の技法は、「哲学をうち倒す〈反哲学〉の手法」(p.240)としての意味をもっていたのである。

第二の対立の軸は、書かれたものと語る言葉の対立である。プラトンが書かれたものに否定的な姿勢をとっていたことはよく知られているし、書簡ではプラトンの書いたものはない、残っているのは若いソクラテスの書いたものだという不思議な言葉を残しているのである。ソフィストもまた書かれたものを否定する。即興のうちに、すべての事柄について生き生きと語る術こそが真の言論であり、書かれたものはその抜け殻にすぎないとみなすのである。

この対立の軸を展開するのが、本書で翻訳・紹介されている二人目のソフィストであるアルキダマスである。このソフィストについてはほとんど研究がなく、知られていなかった人物であり、その作品が翻訳され、分析されたことは貴重である。『書かれた言論を書く人々について、あるいは、ソフィストについて』というこのディスクールは非常に興味深い。

この言論ではプラトンの『ファイドロス』を思い出させる形で、書かれた文章への批判を展開する。語られた言葉は、「瞬時に思考そのものから語られれば、魂を持ち、生きていて、事柄に従い真の物体にも似たものであるが、他方で、書かれたものは、言論の似像に似た編成を持つが、すべてのよき行いには与からない」(p.258-259)のである。

アルキダマスが知られていないのは、このソフィストの本領として、即興の演説に全力を尽くし、書き物を残さなかったからとも考えられる。この演説は、パロディとして、「遊び」としてどうにか残ったものにすぎない。この演説の主張がきちんと守られれば、アルキダマスの「作品」というものが残るはずもなかったのである。

ソフィストの研究は、哲学の発生における位置どりを明らかにする役割を果たすものであり、「哲学の言説を呑み込み、それを相対化する力」をもつソフィストの魅力の研究でもある。古代の「反哲学」の姿と実践に思いを馳せるのを手伝ってくれる書として、そしてソフィストと哲学者の対立する二つ重要な軸から考察した書として、本書は貴重である。

【書誌情報】

ソフィストとは誰か?

納富信留

人文書院

■2006.9

■308p ; 20cm

■4409040804

■定価  2800円

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