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『ハイデガーとハバーマスと携帯電話』ジョージ・マイアソン(岩波書店)

ハイデガーとハバーマスと携帯電話

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「ケータイ・モデル」

ケータイというのは奇妙な道具だとつくづくと思う。それは近さを遠さに変えてしまうものであり、遠さを近さに変えてしまうものだ。仕事の打ち合わせなどで相手がもぞもぞとケータイを取りだすと、気が殺がれていやなものだが、考えてみるとこれは近くにいるからといって、実際に「近い」わけではないことを相手に知らず知らずに知らせる手段ともなりうる。わたしはあなたと話をしていると、あなたは思っているかもしれないけど、実はあなたでない人と話し合っているのよと。

だから話している友人にケータイがかかってくると、とたんにその友人は「ここにいる人」ではなくなってしまうのだ。ケータイは人を遠い場所にさらってしまう。もちろん電話も同じ役割をはたしたのだが、受話器はでこにでもあるというものではなかったのだ。その質的な違いは大きい。

本書はハーバーマスの『コミュニケーション的行為の理論』とハイデガーの『存在と時間』を手掛かりにして、ケータイという道具でのコミュニケーションの性格を考察しようとするものだ。とくにハイデガーの『存在と時間』は遠さと近さの錯綜した関係を考察するものだけに、ケータイの哲学的な考察には最適な書物かもしれない。

最近の映画はこの近さと遠さの逆説をまざまざと教えてくれるものが多い。たとえば連続テレビドラマ『24』でも、ジャックはケータイに衛星放送から画像を送ってもらってテロリスト・グループの一人を追い詰める。現場にいては、現場の地図は認識できない。遠いところからでなければ、どの道をゆけばよいのか、そこに人がいるのかどうか、分からないのだ。遠いところが実はもっとも近いところだったりする。

『MI3』ではトム・クルーズは、現在地と目的地を本部に教えて、ケータイで指示をうけながら、中国の古都を疾走する。そこを右、そこを左と指示されながら、住民を突き飛ばしながら走り抜けるのである。現場にいること、近くにいることが実際に「近い」わけではないことは、無線を切ったために、タイタニック号の近くにいても、救助にかけつけることのできなかったカリフォルニア号が象徴的に示していることだろう。

ところでケータイは近さと遠さというハイデガー的なテーマだけでなく、ぼくたちの身体的な関係性というハーバーマス的なテーマにも、異様なひねりを加えた。話は少し古くなるが、イギリスには人身保護条例として、ハベアス・コルプスという条例がかなり昔からある。たとえば一八世紀にヴォルテールは突然当局に監禁されて釈放されず、一時は生命が危険にさらされたこともあった。フランスではこの時、ヴォルテールを救い出す手段がなかったのである。監禁する「当局」にはさまざまな部署があり、しかも釈放を要求しても、それは無視されるばかりだったからだ。

しかしイギリスであれば、友人や家族の一人が裁判所に訴えでればすむ。ハベアス・コルプス、身柄をもってこいというこの命令のもとでは、身柄を拘束としているという疑いのある当局は、裁判所にヴォルテールの身柄をもってこなければならない。そして裁判官はヴォルテールから事情を聞いて、不適切な身柄拘束であると判断すれば、ただちに釈放するのである。この条例は身体というものを通じて、官憲から個人の自由を守る大きな威力を発揮したのだった。

インターネットというのは、このハベアス・コルプスとは逆の意味で、自由をもたらすものだった。インターネットのメーリングリストなどで開かれる会議においては参加者はみずからの身体をもってくる必要はなく、匿名のままで、議論を展開することができる。そしてその地位や身分などはかかわりなく、議論の内容だけに注目して、その主張についての吟味することができる。

議論の場に身柄をもってくることを強制されると、たとえば議論の相手が上司だったりすると、もはや議論の透明性は失われるからだ。ハーバーマスのコミュニケーションの理論には、この議論における身体的で政治的な水準が無視されて、合意が強制されるという問題があった。

ところがケータイというのは、今度はもう一度ハベアス・コルプスの命令を逆転させる。人々は会議に身体をもってくる。会議に出席することは必要であり、ある種のアリバイだからだ。しかし誰もが会議においては別のことをしている。身体はアリバイとして背後で行われている「打ち合わせ」を覆い隠す役割を果たすのだ。

対話はもはやある合意に到達するための場ではなく、対話の相手にみえない合意を隠すためのアリバイになりかねない。著者はこのような会議はもはや例外ではなく、「これこそが、われわれみんなの生活、特にわれわれみんなの職場生活の原型なのである」(p.48)と強調するのである。職場に身体をもってくることで、覆い隠されているものは多いのかもしれない。

この書物はインターネットやケータイなどの最新のツールがもたらす新しい環境についてのごく手短な考察にすぎない。まだまだメディアに関連してぼくたちが考えるべき重要な論点はたくさんである。「ケータイのモデルで市民に呼び掛ける国家は、批判や新しい合意を受け入れられるようにしておこうとする国家とは、選挙のやりかたがすっかり異なるだろう」(p.71)という指摘は正しいのであり、新しい国家や社会のありかたについて考えるための切り口の一つにはなるだろう。

【書誌情報】

ハイデガーとハバーマスと携帯電話

ジョージ・マイアソン著

■武田ちあき訳

岩波書店

■2004.2

■126p ; 18cm

■ISBN  4000270710

■定価  1500円

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