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『小説の読み書き』佐藤正午(岩波書店)

小説の読み書き

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「原稿用紙十枚の作家論」

 まさに名人芸である。


 佐藤正午は本業は小説家だが、エッセイの書き手としても一流である。本書はその文章術が随所に発揮されていて、一気に読み通してしまうのがもったいないほどだ。

 帯に「ユニークな文章読本」と銘打たれているように、本書は過去多くの小説家が手を染めてきた「文章読本」というジャンルへの、またひとつの挑戦のように見える。たしかに目次には川端康成からはじまって、志賀直哉、鴎外、漱石、三島、山本周五郎、太宰、横光・・・開高健吉行淳之介と近代日本文学の錚々たる名前が24個ならんでいる。あまりに「錚々たる」すぎて、ちょっと退屈そうに見えるくらいだ。

 しかし、ぜんぜん退屈ではない。どの作家の章を読んでも、確実に「あっ」と興奮する瞬間が用意されている。たぶんポイントは分量である。作家ひとりにつき原稿用紙十枚かそこら。読む方にとっても、文章の書き出しを記憶したまま最後まで読める長さで、それだけにごまかしがきかない。そういう設定に自分を縛らせたうえで、佐藤はこの古色蒼然たる有名古典作家の文章を斬新な「問い」でつっつき、ほぐし、ぷんと香るように仕立て直してみせる。そこに極上の「答え」が用意されているのである。あ、またやられた、とこちらは思う。

 たとえば鴎外の『雁』。この小説にはサバの味噌煮が出てくる。30年前にはじめてこの小説を読んで以来、佐藤はそのことを一度も忘れたことはないという。しかしサバの味噌煮が出てくる場面は覚えていても、ストーリーの方は忘れてしまった。佐藤は年に一、二回サバの味噌煮を食べるらしいのだが(この人はいったいサバの味噌煮が好きなのか、嫌いなのか、微妙な回数である)、そのたびに『雁』のことは思い出しても、それがどういう小説だったかは思い出せない、これは不思議なことではないか、と佐藤は考える。なぜだろう?

 佐藤は『雁』を「痒いところに手が届くというか、むしろ痒くないところにまで手が届いてしまう」小説だと絶妙の形容をしたうえで、結論として、そこには「ほんの些細なことで人の運命など変わってしまう」という皮肉な主題があるとする。その「ほんの些細なこと」というのが、語り手の「僕」の、「サバの味噌煮嫌い」なのである。この「些細なこと」のために、岡田とお玉とは永遠に会えなくなってしまう。

 こうして佐藤は考える。どうやら彼にとってサバの味噌煮が意味してきたのは、「皮肉な主題から発想して小説を書くという方法」そのもののことだったのだ。だからストーリーを思い出せなかったのである。『雁』を思い出すということは佐藤にとって、「サバの味噌煮を別の何かに置き換えて登場人物の運命が変わるストーリーを一つ考えなさい」という練習問題にあらためて出会うということにほかならなかった。そして実際、彼はこの問題の答えとなるような小説を書いてもきた。

 十枚かそこらでひとりの作家を料理するには、俊敏さが必要だ。佐藤の文章はすばしっこく、逃げ足も速い。でも、まるででまかせみたいな口ぶりの中で、井伏鱒二の小説には「ふつうに、右手と右手で握手するような読者との関係の仕方を避ける、ふつうとは違ったつながり方を取る、作者の方法から来る不器用さの感触」があるとか、「無頼派の作家は例外なく結婚している」(太宰治の章)、「自分の書くものが達者であろうと悪達者であろうと、人は自分に慣れて飽きる」(織田作之助の章)、恋愛小説とは「登場人物たちの視力の弱い小説のことである」(開高健の章)といった、ちょっとやそっとでは言えないことがさらっと言われたりする。思いつきのようにも見えるが、小説について語るって、こういうことだよな、と筆者などは思う。小説は「雑」な部分を満載することで小説になるのだから、ちょっとは「雑」に、ぞんざいに扱わないといけない。

 この本、「さて」という言葉が出てきたときには要注意だ。いよいよ狙い球を絞ったバッターの、いま打つぞ、という迫力がみなぎる。全体に人なつこく、明晰で、爽快な印象だが、よく見ると実に締まった文章で、なんだかわからない執念というか、殺気だったものさえ感じる。死んでしまった作家ばかりを選んだのもそのためか。

 なお、六つほどつけられた「付記」がどれも傑作である。

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