『反逆する華族 「消えた歴史」を掘り起こす』浅見雅男(平凡社)
「”赤化華族”とは何だったのか」
著者は、すでに戦前の華族について何冊も本を書いており、私もその一冊はかつてある新聞で取り上げたことがあるが、本書(浅見雅男著『反逆する華族―「消えた昭和史」を掘り起こす』平凡社新書、2013年)は、「赤化華族」に的を絞り、皇室の「藩屏」といわれた彼らがなぜ戦前には非合法だった共産党の運動に身を投じたかを再考し、「消えた昭和史」を掘り起こそうとする興味深い試みである。
本書に登場するのは、石田栄一郎(男爵家の長男)、大河内信威(子爵家の長男)、学習院グループ、岩倉靖子(公爵家の三女)などだが、現代の若者には、当時ふつうの人たちよりははるかに恵まれた境遇に育った彼らがなぜ共産党の活動に身を投じたのか、理解に苦しむに違いない。しかし、まさに恵まれた境遇に生まれたからこそ、あるいは、著者の言葉を借りれば、「自分ではどうしようもない『出自』への罪悪感」(同書、52ページ)を抱いていたがゆえに、彼らは左傾化していったのである。
もちろん、彼らの共産党への関与や、逮捕された後の取り調べや裁判の過程での「改悛の情」(「転向」といってもよいが)には温度差がある。いったん有罪(実刑)となりながらも、控訴して執行猶予という比較的軽い判決を言い渡された華族がいる一方で、石田栄一郎のように上告せずに服役したケースもあるというように。逮捕された後いとも簡単に転向表明した華族もいるが、意志の固い人物であればあるほど、獄中で冷静に考える時間を与えられて、自分たちを利用したに過ぎなかった党や運動関係者に幻滅し、彼らとは袂を分かつ道を選んだ華族もいた。石田はまさに後者の典型であった。
石田は獄中で猛勉強し、後に民俗学や文化人類学への道を歩むことになるが、彼が本当に「転向」したかどうかは微妙な問題である。だが、転向者が戦後の共産党によって厳しく糾弾されることになったとき、石田の脳裏にはどのような思いがよぎっただろうか。――マルクス主義の理論的な矛盾や共産党の非合法活動の内実には幻滅した。しかし、マルクス主義に代わるものは見つからない。そこで、以前から関心を持っていた民俗学の方へ行くことにした。それは現実からの逃避であったかもしれない。いろいろな思いがよぎったに違いない。著者は、「彼が自分は転向していないと内心で叫びながら、それを公言できないという屈託をかかえていたことである。これこそが最も「逃避」したい「現実」であろう」(同書、83ページ)と述べているが、言い得て妙である。
大河内信威は、一時は熱心に非合法活動にのめりこみ、『日本資本主義発達史講座』に収録された論文「労働者の状態及び労働者運動史」(400字詰原稿用紙で300枚ほどの大作)を執筆したほどの理論家でもあったが、最終的には、「転向」のおかげで執行猶予を勝ち取った例である。だが、著者によれば、大河内の場合も、本当に転向したかどうかは微妙だという。大河内は、のちに理研グループの持ち株会社の取締役にもなったが、三戸信人の回想によれば、左翼活動の前歴者を密かにかばっていたという(同書、108-109ページ参照)。
戦後は、陶磁器の観賞や研究に打ち込み、その分野での専門家として有名になったが、『歴史科学体系25 労働運動史』(昭和56年刊)に前に触れた論文の一部を再録することは認めている。彼の心の内は本当はわからない。
本書で「学習院グループ」と呼ばれている八条隆正(旧公家)と森俊成(旧大名)の二人は、裁判が始まる前には転向を表明していたが、森は実刑判決を不服として控訴(その結果、控訴審では執行猶予)、八条は実刑に服するというように立場が分かれた。八条は「優秀転向者」となったが、森が控訴審で執行猶予がついた背景には、天皇の意向が働いていたという。天皇の「寛大な御心」は、内大臣秘書官長で宗秩寮総裁を兼ねていた木戸幸一に伝えられたが、著者によれば、その後の動きをみると、天皇の内意が働いていたと考えるほか説明がつきにくいという。
「かくして森の控訴審を除いては学習院関係者による共産党事件は一段落した。森の二審判決が執行猶予つきとなったことに天皇の意向が反映していたかどうかは分からないが、その半年後にくだされた大河内信威の二審判決がやはり執行猶予付きの軽いものだったことも考え合わせると、司法部が宮内省のおこなった処分内容から天皇の心情を以心伝心で察し、方針を転換した可能性ものこるだろう。しかし、真相はおそらく永遠に謎である。」(同書、147ページ)
最後に登場する岩倉靖子の場合は、どうしても筆が重くなる。彼女はキリスト教の信仰を捨てて運動に身を投じたほど意志が固く、あらゆる懐柔策にもめげずに容易に転向表明はしなかった。ところが、自分を運動に導き、若くして亡くなった従姉妹(上村春子)の夫・横田雄俊が簡単に転向表明したことに大変な衝撃を受けた。その後、彼女も「転向」したことになっているが、心の内は複雑だったに違いない。
その頃、赤化華族問題とは別に不良華族問題という「醜聞」があり、世間は彼らに厳しく新聞も彼らへの厳重な処分を予想していた。この予想は天皇の寛大な御心によって見事に外れてしまうが、靖子はそんなことは露知らず、赤化華族問題にも厳正な処分がなされると信じてしまった。兄や公爵家は無事でいられるのだろうか。彼女の心は極端なペシミズムへと向かっていく。――自分が自殺すれば、宮内省や世間は岩倉家を同情の目で見てくれるのではあるまいかと。そして、昭和8年12月21日午後、まさに「不良華族事件」関係者への処分が決まる日、彼女は頸動脈を切って自らの命を絶った。
靖子は、獄中にあって転向する前頃から再び聖書をひもとくようになっていたが、遺書には、次のように記されていたという。
「生きていることは、凡て悪結果を結びます。これ程悪いことはないと知りながら、この態度をとることを御許し下さいませ。皆様に対する感謝とお詫とは云い尽せません。愛に満ちたと願ってもこの身が自由になりません。唯心の思いを皆様に捧げることをおくみとり下さいませ。全てを神様に御まかせして、私の魂だけは、御心に依って善いようになし給うと信じます。説明も出来ぬこの心持を善い方に解釈して下さいませ。」(同書、198-199ページ)
悲劇の生涯である。もう一度言うが、現代の若者は、このように「思想」に殉じて短い生涯を閉じた女性がいたことをほとんど理解できないだろう。「消えた歴史」を掘り起こす意味もわからないかもしれない。だが、それもまた、ほんの一部とはいえ、私たち日本人が歩んできた歴史なのである。