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『孤高のピアニスト梶原完』久保田慶一(ショパン)

孤高のピアニスト梶原完

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「日本初のヴィルトゥオーゾ

現在では、世界で活躍する東洋人の音楽家は珍しくない。もはや世界は東洋人の活躍なしに存在しない。1950年代に渡欧し、ただちにヨーロッパ各地で本格的な演奏活動ができた日本人は珍しい。本書は、昭和初期から戦後の日本、また留学したヨーロッパの戦後に生きた一人の音楽家の人生を書いたものである。


1924年、上海に生まれた梶原完(ひろし)は「戦後派ピアニスト」であり、日本が生んだ初めての「国際的ピアニスト」であった。1946年のデビューから1954年のウィーン留学まで、梶原は日本で16回のリサイタルを開いた。

「戦後派ピアニスト」には、田村弘、園田高弘、草間(安川)加壽子、井口基成がおり、彼らは演奏家また教育者として日本の音楽界を世界的レベルにまで引き上げてきた貴重な音楽家たちである。

リサイタルで梶原は意欲的なプログラムを取り上げた。この勇気は、世界に通用する才能を磨き上げるために大きな助けとなったであろう。独奏曲では、ベートーヴェンソナタ第32番ハ短調シューマン「幻想曲」、リスト・ソナタロ短調ストラヴィンスキー「ぺトルーシュカ」、グラナドス、トゥリーナの作品、また協奏曲ではリスト、シューマンブラームス第2番、チャイコフスキープロコフィエフ第3番、ラフマニノフ第3番などの大曲である。これらは演奏家のレベルが高くなった現在でも難曲として知られている作品である。

楽譜が少なかった当時は、皆、自筆で楽譜を五線紙に写して練習に励んだそうである。梶原も同じようにして音楽を学んだ。本書に梶原が写したリストの「ダンテ・ソナタ」が載っている。最後の8ページを夜の9時50分から翌日の午前4時40分まで、実に7時間近くかかって写している。ヘンレ版によるとこの作品は32ページ、単純計算すると28時間。昼間に練習をして夜に写譜をするとして、4~5日はかかる仕事である。この書に載っている梶原の写譜は、誠に丁寧で綺麗である。梶原の作品に対する尊敬の念と、音楽に対する真摯な態度が伺える譜面である。

梶原は、どのようにしてリストのソナタストラヴィンスキーのぺトルーシュカ、ラフマニノフ協奏曲第3番などの超難曲を仕上げていったのであろう。何の情報もなしにテンポの設定から解釈、曲想の構成までを仕上げるのは、並大抵の努力で出来るものではない。本人の読譜力、理解力、またテクニックの工夫も必要である。このような曲を演奏できたことが「凄い!」の一言につきる。梶原は、相当のエネルギーと強い実行力を持った人間なのであろう。

梶原の録音が手に入らないために、実際の技量を確かめることは出来ない。しかし、ここに載っている数々の批評を読むと、梶原の演奏はスケールが大きく、彼が日本初のヴィルトュオーゾだったことが分かる。

彼の演奏は批評家たちの刺激となり、野村光一、山根銀二、園部三郎、寺西春夫、属啓成、大木正興など著名な批評家たちが真剣に意見を交わしている。日本のクラシック界が開闢した時代に、彼らが交わした論争は興味深い。

技術が先行する演奏は、音楽性の不足を指摘される。ハイフェッツホロヴィッツシュタルケルなどが、その犠牲になった典型である。音楽を心で聴くということは個人的なことで、それを文体で表現するのは難しい。

自らの感情を押さえて一音一音を大切に弾く、このような演奏を批評家は、作曲家の意図を考慮した内面性の高い演奏、と評価する。一方、梶原のように、テンポが速く「高度のテクニック」を駆使して弾く演奏は、内容の薄い演奏とされてしまうのである。

批評家のなかには、テクニックとメカニックを混同している人がいたのではないだろうか。この書にも、「技巧は表現の下に隠されてこそ生命を与えられる」という批評が読める。私の思う本来のテクニックとは指を速く動かすだけのものではない。それは、音楽を表すために必要なあらゆるツールを意味するのである。美しい音で演奏しようとするならば、汚い音を聞き分けられる聴感覚と、美しい音を出し得るテクニックが必要である。また、静かでゆっくりとした旋律では、細微に亘って音をコントロールできるテクニックが必要なのである。音楽を高めようと努めれば、高度なテクニックを必要とし、テクニックがないと内容のある演奏は出来ないのである。「メカニックはあるが音楽性は薄い」と言うことはあっても、「テクニックはあるが音楽性は薄い」ということは私の考えではあり得ない。

「批評の理論ばかり上手になっても、実際にその演奏の音楽の持つ良さや音の良さの判断は人間の神経なのだから、神経のない様な人に批評されるのは大変困ることだ。」音楽芸術に寄せた梶原の文章である。

彼の演奏は日本の聴衆にとって新鮮かつ刺激的だったであろう。日比谷公会堂で開かれたデビューリサイタルは超満員、その後のリサイタルでも多くの聴衆が彼の演奏を聴いた。たちまち梶原は日本で最もポピュラーなピアニストの一人となるのである。しかし、彼は日本での成功に満足することなくヨーロッパに活動の起点を移した。その後、4年間で40回近くの演奏会をこなし、事実上の国際的なピアニストとなるのである。その後もヨーロッパで演奏活動を続け、日本に戻ることなく1989年に生涯を寂しく閉じた。

「偉大な未完成者」、「日本のルービンシュタイン」、「孤高のピアニスト」、日本では「故国を捨てたピアニスト」とも呼ばれた梶原であったが、彼は決して故国を捨てたわけではない。世界に通用しなくなってから帰国する自分を許さなかったのだ。彼が日本に帰り教育活動に入らなかったことを、私は残念に思う。


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